ある兄弟について
今から五十年ほど昔のこと。
夏の終わりになると晴はその兄弟の弟に連れられて、船着き場へ行く。
船を迎えに行く。船着き場に着いた古びた漁船から彼の兄が真っ黒に日焼けして降りてくるからだ。元気に魚たちをかかえて。
その兄弟は弟の方を「淳」といって、兄の方を「一馬」といった。特に淳の方は晴と同い年で、晴はその兄弟と同じ村で育った。
海辺の小さな漁村だった。昔、海はどんな観光地にも負けないほど深い蒼をたたえていた。三人はよく海で泳いで遊んでいた。未来のことなんて考えなくても、夢さえあればよかった。
未来のことを話す時、よく晴と淳は五つ年上の兄の話を聞いていた。兄の一馬には、自分たちより五年早く未来がやってくるのだ。一馬には、大学に入って都会に出ていきたいという夢があった。家業の漁師を継ぐ人間も必要だったけれど、一馬がその話をすると、淳は決まって自分の夢を「漁師」だと、輝いた瞳で言いきるのだった。
しかし、一馬が高校半ばの頃彼らの父親は漁に出て、それきり帰ってこなくなった。途中で無線が途絶え、帰港日になってもまぼろし一つ現れなかった。
船の帰らない船着き場で一馬と淳は時間を忘れて立ち尽くした。海は何事もなかったかのように静かに美しい風景を見せてくれて、波の音が子守歌のように優しかったのを覚えている。
晴が何も言えずにいると、二人は口を揃えて
「親父は海に好かれ過ぎた」と言った。
――親父は海に愛され過ぎて、嫉妬されたんだ……と。
生きてるのか死んでるのかもわからないけれど、多分、海に「親父を返せ」と叫んでも海は応えてくれないだろう……と。
ほどなくして、一馬は高校を辞めた。そして消えた父親の代わりに海へ出ていった。淳はまだ小学生で、母親の働きでは食うのにも困るほどで、夢を追う余裕などなかった。
本人は「夢は後で追えばいい」と笑っていたけれど、淳は晴と二人きりの時にこう言った。
「兄ちゃんはああ言ってたけど、本当はおれが兄ちゃんの夢を潰したんだ。おれがいなきゃまだぎりぎり学校に行く金だって出せたのに、おれがいたから……。
なあ、おれが中学出て、一人前の漁師になって、やっと兄ちゃんを学校に行かせられるようになるまで一体何年かかると思う? それだけ年が過ぎたら、兄ちゃんだって嫁さんもらって、漁師なんか辞められない歳になっちまうよ……」
淳は、自分でも思いがけなく涙をこぼした。晴は初めて見る彼の涙にもらい泣きしてしまった。
それから三年もの間、晴はずっと淳と一緒に一馬を迎えに行った。一馬はいつも明るい顔をしていたけれども、もう未来の話なんかできなかった。
仮に話したとしても彼は決して暗い振る舞いはしないだろう。けれど、一馬は漁師という仕事について、父を奪い取った海の魅力について決して理解することはなかった。
同時に彼は自分の父親が理解できなかった。どうして親父は、自分が海に嫉妬されるかもしれないと知ってて、それでも海を目指したのか……と。
そしてある日一馬の乗っていた船からの無線が、途切れた。
周りの必死の捜索が行われる中で、淳は心配しつつも妙に醒めていた。晴が船着き場に行くと、淳は三年前と同じように今度は独りぼっちで座って、海を眺めていた。晴が隣に座ると、彼はゆっくり思い出すようにして父親の話をし始めた。
そのころ、一馬は海の上にいた。浮き沈みする船に捕まり、表面には果てしなくいつもの波しかない海と見上げても果てしなくいつもの雲しかない空の間で、美しい風景以外に何も見えない不思議な感覚の中で、彼はぼんやり父親のことを思い出していた。
海が怖いと親父に聞かされたことがある。海は懐がとてつもなく広くて、底の見えない怖い女だと。日常的に仲間が海に消えていくが、それも仕方のないことだと。
そう言いながらも親父は海をいとおしそうに見ていた。その顔を見て一馬も淳も困惑していた。その時、二人の父親は一瞬だが自分たち家族よりも海を愛する人間になっていた。
「その時の親父の言葉が、今解った気がするんだ。親父はさ、マジで海に殺されてもいいって言い切ったんだ。海で死ぬか死なないかの瀬戸際に立たされると、海は最高に綺麗な風景を見せてくれるんだ……って。
だから、どんなに海がおっかない生き物でも、他に楽な仕事がいくらでもあっても……」
「それでも、俺たちは海を目指すんだ」
その兄弟は、お互いに遠く離れた所で同じように呟いた。
そして、一馬はあえて船にしがみついた。遠く彼方に助けの船が見えた。
一馬が船着き場に帰ってくると淳はほっとした顔で「おかえり」と言った。お互いに何かを感じたことが顔つきでわかった。
それ以来、夏の終わりになると晴はその兄弟の弟に連れられて、船着き場へ行く。
船を迎えに行く。船着き場に着いた古びた漁船から彼の兄が真っ黒に日焼けして降りてくるからだ。元気に魚たちをかかえて。
昔その顔にあった翳りは、もはや無い。
【End.】
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