せめて祝福を
その病室で彼女を看取った長谷川の姿を、その背中を俺は一生忘れることができないだろう。
無愛想な奴だった。友人の前でもとんと笑うことがなく、面白味のない奴だった。俺はてっきり奴が孤独を好んでいるのかと思っていた。実際奴は人に好かれようとも思ってなかったらしく、いつも一人だった。
想像できなかった。奴が泣くところなど。
長谷川は、その時俺が今まで見たことがないほど穏やかな顔をしていた。優しく彼女の手を握り、決して彼女の顔から目を背けず、そのままいつしか俺のことも忘れて二人の世界に埋没してしまいそうに見えた。
器具は全て彼女から取り外されていた。彼女の顔は、どんな彫刻よりも安らかでどんな人間よりも深い眠りを孕んでいた。
「この女はな、変な奴だったよ。この俺になついたんだから。暇になるといつも俺を巻き込んで笑ってばかりいた。俺はな、それまで世の中が嫌いだったけど、この女につられているうちにほんの少しだけ世の中も悪くないなって思えるようになったんだ。
いつだったかな。最近こいつに連れられて遊園地に行ったんだ。俺、こいつといると……何でかなあ。いつもより笑ったり、驚いたり、怒ったり、泣いたり、いろいろするんだ。こいつは当たり前みたいに一緒に笑ってた。それでさ、一休みした時に『また一緒に来ようね』って言ったんだ。
この俺が遊園地だぞ? 全然似合ってないよな。
でもさ、俺幸せだったんだよ。
何でもできそうな気がして、こいつを抱き上げてくるくる回ってさ。こいつ、笑ったんだよ。
俺、その時初めて自分からこいつを喜ばせようとしたんだって気がついたんだ。
おかしいだろ。この歳で。あの時の笑顔が忘れられない。あの笑顔を見たとき生まれて初めて生きてる気がした。俺さ、それまで笑顔って何なのか知らなかったんだよ。本当に」
「この歳まで、いいことなんか全然なかった。でも、人生やり直したいとは思わない」
長谷川はそう言って彼女の顔に触れた。その手はとても優しかった。
「なあ、こいつ綺麗だろ。由香って名前なんだ。さっきまで苦しそうな顔してたのにさ、楽になったんだろうな。こんなに安らかな顔で、眠って」
長谷川の手は微かに震えていた。俺は、無愛想な彼のおのろけに驚くよりその手から目が離せなかった。
長谷川の震える左手には銀の婚約指輪がはまっていた。彼の花嫁は、白い衣をまとってやはり左手に同じ婚約指輪をしていた。
「なあ、祝福してくれよ。こいつ、たったさっき俺の女房になってくれたんだぜ」
俺はなぜか、その時の彼を今までで一番人間らしく感じた。「おめでとう」とそれだけ言うと、彼は笑ったのだ。本当に嬉しそうに。
長谷川は彼女の体をゆすり生き生きとした声で彼女に話しかけた。
「……おい、よかったな。祝福してくれるってよ」
「……由香?
……おい、……おい……」
返事はなかった。彼はそれでも妻に微笑んだ。
次の瞬間長谷川の身体が大きく震えた。彼は身を燃やし尽くすような力で縮こまり、極限まで押し込められた嗚咽を短く二・三度洩らした。嗚咽はやがて止まらなくなり、長谷川の左手は主を喪ってだらりと垂れてしまった。
絶え間なく肩を震わせる彼の前で彼の妻は天に召されていた。俺は病室の外へそのまま出てドアを閉め、不覚にもそこで泣いた。
【End.】
戻る[1]
Copyright © 2009 桔梗鈴