パロットは天国へ行った [1/4]
町内のぼろいアパートの一階。コンクリートが打ちっぱなしの床には安い金ダワシのような玄関マットが引かれ、閉ざされた一室の前で青年が一人腕組みをしている。色素の薄い長髪は後ろで束ねられ、残暑の季節ということもあってTシャツにハーフパンツ、そしてサンダル履きというラフな服装。右の手首には数珠が巻かれていた。
脇に、年増と思われる三毛猫が一匹いた。飼い猫とおぼしき赤い首輪。太った体のせいで手入れがうまく行き届かないのか、背中の毛がべとつきがちである。
「おいミケーレさんよう。本当にここか?」
三毛猫だからミケーレ。青年は三毛猫を”彼女”の首輪に刻まれた名で呼んだ。三毛猫は遺伝子の関係上そのほとんどがメスだ。ミケーレは知らぬそぶりで毛づくろいをし、気持ちよさそうに耳を掻いている。青年は肩をすくめ、また正面の閉ざされた扉を見る。
「”そうよ。あたしがいうんだからまちがいないわ。はやくあけてくださる。ニャーゴ”」
聞いたこともない猫の声を、裏声で口まねた。多分イメージ的には商店街のオバサンみたいなキャラクターなんだろう。青年にはこの扉を開ける権限も根拠もないのだが、猫は猫の方で自分に気づいた人間がいたものだからどうにかなるだろうと考えているようだ。
郵便受けには住人の名前。ダイレクトメールや何かの通知書が随分溜まっていた。新聞受けからは夕日に染まった新聞が群生してこぼれ落ちている。ダメでもともと、青年がチャイムを押し、中に声をかけながらドアをノックする。無人という反応しか返ってこない。
「ナカジマ君。何してるの」
若い女の子の声に、青年は磁石で首をひかれたように振り返った。視線の先に彼のガールフレンドのマイが買い物袋を自転車の籠にのせて立っていた。
「マイちゃん。買い物帰りか」
「うん。そこナカジマ君の家じゃないでしょ。お友達ん家?」
「いや」
マイが走ると膝丈の薄いスカートがふわりと揺れる。買い物袋の中身の充実具合は家庭を取り仕切る主婦のそれで、だけど顔は高校生らしくはつらつとしている。肩にかかるかかからないかの長さの髪を耳に掻きあげる仕草が、たまらない。
青年は苗字をナカジマといって、マイとは青臭い仲だった。同じ歳でよく話をするが恋人ではない。というか、認めてもらえていない。彼には不本意なことに。
「説明してわかってくれるかなあ」
ナカジマは腕の数珠をいじりながら視線を宙に漂わせ、問わず語りに経緯を喋りだした。
ナカジマが猫の霊を見るようになったのは昨日の夜からだ。古来幽霊は体質によって見える人間と見えない人間がおり、しばしば物議の対象になってきたが、ナカジマにとって幽霊は幼い頃から存在するまれびとだった。人に危険をもたらす悪い霊にもたまに会うので、遠出の時や肝試しなどの不穏な行事には数珠をつけて行くようにしている。
残暑の熱帯夜に部屋で寝ていると胸元が重苦しくなり、うっすら目を開けたら胸の上に猫がいた。大人になってまだ若い猫で、肩骨と頭蓋骨の輪郭が浮くほどはっきりやせている。灰色に黒のトラ縞だからアメリカンショートヘアだろうか。すぐにこの世のものではないなと感じた。
猫は、寝起きのナカジマの顔を覗き込んでにゃあと鳴いた。全身からあらゆるものに飢えたもののかなしい気持ちが伝わってきた。
「飯? ねこまんまか?」
はいともいいえとも言わず鳴くばかり。幽霊になったからといって他種族と意思の疎通ができるものでもないらしい。ナカジマが胸から降りるよう手を振ってうながすと猫は素直に胸から降りる。
「ちょっと待ってろ。ねこまんま作ってやる」
闇に慣れた目で壁の時計を見たら夜中の三時半だった。ナカジマは猫を飼ったことがなく、ねこまんまの作り方を知らなかったので祖父母の部屋で寝ている祖父を叩き起こして作り方を聞いた。夜中にこんな馬鹿馬鹿しい頼みごとをして怒らないのは祖父だけである。祖父は孫が襖を開ける音に目を覚ますと、孫の傍らにいるちいさな幽霊を見てすぐに話を聞いてくれた。
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