名もなき……。 [3/3]
最初から素直に子どもを愛するような女では、俺の場合駄目だったのだ。妻は俺が他の女の腹を蹴ったことを知りながら俺と一緒になってくれた。自分のように情の薄い女でよければと最初に前置きして。
予約を入れてあった寺に着くと、妻は新たに三人の水子の供養を住職に頼んで畳の上に深く頭を下げた。俺も一緒に頭を下げた。住職が何もいわずに供養を引き受けてくれたことが、俺にはつらかった。
俺のほうの水子には勝手に女の子扱いをして、沙羽と名前をつけた。仕上がった位牌の戒名にもきちんと名前が入っている。法要の間俺が神妙にしていたのはもちろんだが、妻も隣で沙羽のことをわが娘のように悼んでくれた。多分妻のほうの水子の位牌が仕上がったら俺も同じような気持ちで流れた子らのことを悼むのだろう。
考えてみると俺たちには四人も子どもがいた。子沢山だ、と、法要の間わずかに可笑しい気持ちになった。
法要が終わったあと位牌を寺に納めたので、外に出たとき俺たちの手元には何も残らなかった。俺と妻は外に出た後も無心に賽銭箱の前にゆき、随分長いこと手を合わせてその場に立ち続けていた。
愚かしいことだった。神仏にものを頼むなんて、二十代や三十代の頃ならその弱さに軽蔑して決してやりはしなかった。妻も価値観が似ていたから多分そうしていたことだろう。
「ねえ」
妻の声がして、俺はようやく目を閉じて拝むのを中断した。横に立つ妻の顔は何かを俺に渡さぬように硬くこわばっていた。
「私が、あなたと結婚する前に三度も子どもを堕ろして、子どもを産めなくなったのは別にあなたのせいじゃないわ」
一度目は知り合いに強姦まがいのことをされて。二度目と三度目は自棄になって。結婚する前から知っていて合意の上だった。勢いのあった俺は子どもが嫌いで、子どもの産めない女と結婚することを望んでいた。
俺は声をかけてきた妻に顔に出てるかどうかもわからない微笑みを返すしかなかった。
「うん。別に、お前のせいでもないよ」
ただ、誰を責めたらいいかわからなくなった。全部わかっていて結婚したから水子を供養したいなんて話は今日までおくびにも出せなかった。結婚したときは強かった妻の手が歳をとるごとに弱く、やさしくなってきて、ふと水子の名前が何だったかと思った瞬間にその考えがずっと頭から離れなくなった。
「ばちが当たったと思ったんだよ」
今までずっと言えなかった思いを打ち明けられて、俺は年甲斐もなく涙ぐんだ。妻の顔がますます硬くなって、感情を内へと封じ込めたのがわかった。
「子どもが欲しくなったんだったら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「うん」
妻のことだからためらわず養子なり離婚なりを切り出してくるだろう。女にしては理知的だが、俺がお前とのほんとうの子どもが欲しかったなどと言ったら自分ばかりを責めて陰で泣くような女だった。俺はそれだけは言わずに、水子への思いを打ち明けられただけでよしとした。
「うつのせいかな。最近涙もろくなったよ」
「あなたのは違うわよ。歳のせいよ」
まだ歳のせいだと自分で認めたくはない年齢だった。背中をさすってくれる妻の手がたまらなくて、昔のように冗談交じりで抱きしめてやると妻は俺の胸の中で「ごめんね」とつぶやいた。俺はしばらく何も言えずに首だけを横に振った。
妻のほうの水子にそれぞれ名前をつけて法要を終えたときには、季節はもう夏にさしかかっていた。俺はといえば胸の中のわだかまりが溶けていくにつれて少しずつ抗うつ薬の量が少なくなり、昔のようにとはいかないが、四人の子の父親になったのだと思い直すようにして妻とまた外へ出かけるようになった。
妻の顔も前より硬いものがとれて楽になったようだった。もともと顔のつくりはいいのだ。
「ねえ。外国では赤ちゃんを捨てられるポストがあるんですって。そういうところの前で待っていたら、子どもってもらえるものなのかしら」
ハンドルを切りながら、信号待ちのところで俺は横目に妻を見る。今の俺たちならどうするだろうか。いくら犠牲を払ってでも、血を吐くようにして”ください”と、頼み込むのだろうか。
「物騒だってわかってはいるのよ。やめましょう。私たちは年寄りらしくペットでも飼いましょう」
「いや、いいんじゃないの。五人目。いや一人目か? 第一まだそんな歳じゃないし」
「私とあなたじゃろくな養育者にならないわ」
「うーん、でもなぁ……」
最近、俺は小さな旅をしながら妻とそんな話ばかりをしている。日本人の平均寿命を半分まで折り返して少ししか経っていなかった。まだ老後と決め込むには長すぎる時間が、俺と妻とをとりまいて夏の光のように車内に満ちていた。
【End.】
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