ケレスト・フォーナックスが故郷のクライストチャーチ島から本土へ赴き、寺院を転々とした後共和国最北の大都市であるサカラク市に赴任してきてもう四年になる。サカラク市は
フォーナックスは一日の最初と、最後に寺院の郵便箱を開けて中を確認することを日課としている。多くは寺院への感謝の手紙であったり、事務関係の手紙であったりする。寺院で自分と同じように寝泊りしている僧侶たちへの手紙も混ざっている。
妻からの手紙は、毎週水曜日に届く。こちらの方はもう十年近くになる。
フォーナックスが妻のフィシス・ローズと出会ったのは彼が三歳のときだ。二人とも同じ寺院の前に捨てられていた捨て子だった。ちょうど
年は同じくらいだろう。優しい目つきがとても可愛らしい女の子だった。その寺院に派遣されていた僧侶は二人を神の教えに従い大切に育てた。二人は大変信仰心の篤い子どもになり、フォーナックスは十歳で僧侶の洗礼を受け僧侶としての修行を積むために島を出た。今でもそうだがこの時代では男児は十歳で一人前とされ、十歳になったのを機として職に合わせた様々な勉強を始めることになる。
フィシスはフォーナックスが島を出る前の晩、礼拝堂で泣いていた。
フォーナックスがそれを見つけて声をかけると、それまでは「がんばってね」とばかり言っていたのに「本当に行っちゃうの」と言っていた。
「シス。あのね。ぼくが何でお坊さんになりたいかっていうと、お坊さんはいろんなことができるからなんだ。ぼくたちみたいな捨て子を拾ったり、悪い人をこらしめたり、けが人を治したりできるじゃないか。ぼくは偉いお坊さんになりたいんだよ」
言葉の最後に後ろめたい小声で「そりゃ、さびしいけど」と本音を洩らしながら、それでも誇り高く希望に燃えていた。島を出てから最初に彼女に出した手紙をフィシスは今でも大切に持っているという。ときおり彼女との間でその話になると、フォーナックスはそのたびに恥ずかしくてしょうがない思いをさせられる。
――シスへ。
お元気ですか。ぼくは元気です。
新しい寺院での生活は思ったよりいい感じだよ。
同い年の友達がたくさんできて、毎日が忙しい!
勉強だって、きちんとやってるよ。
聖典の暗唱だって毎日の掃除だって、
先生にイタズラするのだってぼくが一番なんだ!
おっと、これはいけないね。
あとで神様に告解しておこう。
それじゃ
「結構自信家なのよね」
フィシスはその話をするたびにくすくすと笑う。フォーナックスもこれにはかなわない。腋の下をくすぐられる拷問のように逆らえないので早く忘れてほしいと思う。
ともあれ、修行を終えてとりあえず島へ帰ってきたのが二人が十八歳の頃だった。フォーナックスも立派な青年になり、これから神のため人のために役立とうと志に満ちていた頃だった。
フィシスは見違えるほど美しい少女になっていた。
「ケスト。お帰りなさい」
昔のままの優しい瞳に、女らしいたおやかな仕草。何をどう説明したらいいのかわからないがやわらかくてものすごくいい匂いがした。八年間も俗世間から離れて修行していたフォーナックスには彼女の笑顔の前で何を話したらいいのかわからなくなっていた。
くらくらして、次の日から無闇に神に祈る時間が増えるようになった。「彼女とどうやって話したらいいですか」という内容の祈りを一年くらい毎日続けていたような気がする。よりにもよって彼女に姦淫の心を抱いてしまった自分を何度も何度も諌め、抑えつけ、罰した。彼女と一緒にいるのが辛かった。それなのに彼女から離れると不安でたまらず、彼女が微笑むのを見ると深く安堵する自分がいた。
生まれ育った故郷で、フィシスと島の人々に囲まれる生活。しかしそれまで彼を突き動かしてきた使命感との間でフォーナックスの心は揺れる。小さいころから生活の中で影を落とし続けてきた戦争の匂い。悲しみや、不幸や、死の匂い。そういったものに立ち向かっていきたいと強く思っていた。十八歳のフォーナックスはこの地で永住するために故郷に戻ってきたのではなかった。それでも彼を島に引き止める、フィシスへの想い。
迷い、憂鬱になる日がフォーナックスの中で続いた。本土の方である事件をきっかけにいくつかの民族間で対立が起こり、民族紛争が頻発するようになるとその憂鬱はますます色濃くなってくる。本土より三日遅れて届く新聞には毎回破壊された町や村の写真が飾られた。十九歳の時にとうとう島の寺院に訃報が届いた。フォーナックスが本土にいた頃一緒に修行していた仲間が、紛争に巻き込まれて死んだというものだった。
「本土へ行く。苦しんでいる人のもとへ行かなければ」
一度決めたら、必ずやる男だ。フィシスはそんなフォーナックスのことを誰よりもよくわかっていた。フォーナックスが本土に行くことを彼女に伝えたその時も、彼女は静かに頷いて「がんばってね」と言った。
出立の前の夜、何かに急かされるようにしてフォーナックスが礼拝堂を覗くと、フィシスは何本もの蝋燭に火をともして神への祈りを捧げていた。また彼女が泣いていたらという不安にかられ、近づいて声をかけると彼女は泣いてはいなかった。
「そういえばあなたが修行に出たときは泣いてたわね」
「うん。また泣いていたらどうしようかと」
「泣かないわよ。泣いたってあなたは行ってしまうんだもの」
気を張った微笑みがただ痛かった。胸がちくりと痛んで自分の想いを伝えようかとも思ったけれど、そんなことで伝えられるような想いは軽率だと彼は思った。何も言えずに彼女と一緒にひざまづき、二人で神に祈りを捧げた。
いつだって、大切で、大切で、大切な人だった。小さい頃からの彼女をよく知っている。無邪気で、泣き虫で、でも笑顔がとても眩しかった。いつも健気に前を見て生きていた。
そんな彼女の姿を守りたいと思うようになったのは、いつからだろう。
「ケスト。私ね、シスターになろうと思うの。ここには私たちの弟や妹がいるし、あなたがいなくなった後のこの寺院を誰かが守らなくちゃいけないでしょう。だから私お嫁には行かない」
一生ここで、神様に仕えて生きていくわ。
その言葉を聞いた途端狂おしいほどの感情に襲われた。
フォーナックスは祈っているフィシスの肩を掴むと、その場で彼女の唇を奪った。
彼が我にかえった時、そこには驚きのあまり泣きだしかかっているフィシスの眼と、それを見ている神のまなざしがあった。
とんでもないことをしてしまった。
それ以上彼女に何かすることも、逃げ出すこともできなかった。放漠としてその場にたたずんでいるとフィシスは彼の顔をじっと見つめてぽろぽろと泣きだした。
「……あ」
泣かないで。
始めはいつものようによそよそしく肩に触れて慰めていたが、その行為の嘘臭さに耐えられず自然に彼女を抱きしめるようになっていた。
「ごめん」
一言何か喋ることにどんどん彼女が愛おしいものに変わってゆく。帰ってきてからずっと憧れていた匂いを、胸一杯に吸いこむ。それでも自分は明日には島を出ているだろう。明日を逃したら島から出られなくなるような気がしていた。
「君を、連れていけない。激戦地へ行くんだ。苦しんでいる人たちが僕を待っているんだ。いつ帰ってこられるかもわからない。だから君とは結婚しない。こうして、神様の前でキスしてしまったけど」
死ぬほど愛おしい。
「こんなこと言うつもりじゃなかった。何もしないで行くつもりだったんだ」
「何もわからないわ。私だって、どこへも行けない」
すがる縁もなく、自分たちと同じように捨てられた子どもたちのために彼女は一人島に残るしかない。それを考えたときフォーナックスは自分が一体何をしているのだろうと思った。
こうなるくらいなら、想いなど伝えなければ良かった。そう思いながら泣きじゃくるフィシスを抱きしめているフォーナックスの姿を、礼拝堂の神像は夜が明けるまでじっと見つめ続けていた。
翌朝、島から一日二本しか出ない船の一本でフォーナックスは共和国本土へと赴いていった。早朝の出発だったにも関わらず船着場にはたくさんの見送りが現れ、その中には泣きはらした目のフィシスの姿もあった。二人は特別な会話を交わすことなく、互いへの想いを一言も口にしないで別れていった。
船の上で小さくなっていくクライストチャーチ島を見つめながら、自分の半身が死んでいくような喪失感を感じていた。礼拝堂の中であれほど朝日に怯えた夜をフォーナックスは知らない。多分これからもないだろう。まだこの腕の中に残っている、愛した人のぬくもり。
「――シス。
僕は行かなければならないんだ。苦しんでいる人を助けたい。それに、もうこんな戦争は終わらせたいんだ。終わらせなきゃいけない。
あまりにも回数が多すぎて君は忘れているかもしれないけど、君は小さいころ、僕たちのいた寺院に捨て子を新しく見つけるたびに泣いていた。それに島の人たちが戦争で死んで帰ってきたり、帰ってきてから死んだりするのを見るたびに泣いていたんだ。そんな君を見るたびに僕が何を考えてきたか、わかるか」
僕は君が泣かないですむ世の中をつくりたかったんだ。
シス。僕はまだ信じているんだ。僕が信じて少しでも多く神のために働き続ければ、いつか戦争が終わるって。だから僕はいつでも前線へ行くよ。多分君の所へは帰れない。戦争が続く限り、ずっとそうだと思う。だから戦争が終わって君が僕の所でなく、他の男の所で幸せになっていても、僕はかまわないんだ。
――ただ
「――全部終わって、もしも君が他の男を見つけていなかったら、その時は僕と結婚しておくれ」
フォーナックスはそれから本土の地域紛争の中心地に赴き、各地の寺院で紛争が終わるまでの五年間を過ごした。その紛争と前後して発生したオースティア国との緑海戦争には二年間従軍している。フィシスはフォーナックスと別れてから毎週土曜になると必ず手紙を書いて島のポストに投函し続けた。手紙は三日ほどをかけて海と大陸を渡り、大体水曜日くらいにはフォーナックスのもとへ無事に届いた。彼は共和国が緑海戦争に勝利した後、ようやく故郷のクライストチャーチ島に帰っている。
フィシスと結婚し、安息を得たかと思われたフォーナックスの生活は一年と続かなかった。共和国暦五六四年、
――ケストへ。
お元気ですか。私は元気です。
小さい頃一緒に暮らしていたマーシャを憶えていますか。
あなたが初めて島を出た時には赤ん坊だったあの子が、
この前の月曜に男の子を産みました。
私のことを伯母さんと呼ばせるんですって。
それに、名前をつけてくれって頼まれてしまいました。
とてもかわいい子よ。何かいい名前ないかしら?
神のご加護を
目を閉じれば思い出す。岩場や絶壁ばかりで砂浜がなかったクライストチャーチ島の海辺と、大海原。絶壁の上の原っぱで海を仰いで立っていた白い十字架。よく透明なグレーの色に曇っていた空。そんな中で子どもも持たずに孤児たちと健気に暮らしている、愛する人の微笑み。
故郷から遠く離れたこの場所で、ケレスト・フォーナックスは今日も戦いを続けている。故郷の妻からの手紙は、そんな彼の数少ない心のよすがである。
「冷日の魔道士・番外」
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