1945
Chapter2 [1/2]


 私は戦時中のあの頃へ立ち返ってしまったのでしょうか。三月の空は、そこだけは果てしなく平和なときと変わらないのです。私はお兄さんに手を引かれながらそれを見ていました。
 私たちは町の焼け跡の中を診療所へと歩いていました。家は軒並み焼け落ち、黒く炭になった体が転がっていて生き延びた人は泣き叫びながらそれを掘り起こしていました。太陽に明るく照らされた地獄でした。
 私は、一言も口を聞きません。
「君の名前は」と聞かれて「奈津子」と答えると、お兄さんや小さい女の子はそれを「違う」と言いました。
「奈津、お前のちゃんとした名前言ってみ? ”奈津実”じゃないか。な?」
 私はショックによる精神障害だと診断されました。お医者さんはあっさり私たちを追い出した後、次々と終わりのない患者をさばきにかかっていました。
 本当はわかっていた。
 本物の奈津実さんは、多分あの恐ろしい空襲の時に死んでしまったんです。私はその代用品です。ようやく私にも自分の家族が無事だろうということがわかりかけていました。それでも、自分の身の回りに起きたことはあまりに恐ろしくて、何もできませんでした。
「奈津、お兄ちゃんの名前言ってみ?」
「わたしのことおぼえてる?」
 解らないのじゃなくて、知らない。けどそんなことを言って何になるんでしょうか。私が黙っていると、お兄ちゃんは私を責めることなく火傷した手で私の手を握ってくれました。
「いいか、俺のことは”信人兄ちゃん”って呼びな」
「わたしは、”多美”だからね」
 多美とはお婆ちゃんの名前です。大好きだったお婆ちゃん。私は、その過去の中にいるのでしょうか……。

 私たちは東京から外へ出ることができませんでした。もともとお婆ちゃんのお父さんは実家と絶縁状態だったらしく 親戚の人は誰一人として現れませんでした。仕方なく私たちは焼け跡にバラックみたいなものを建ててそこで三人で暮らし始めました。
「奈津はうちで大人しく寝てな。大丈夫だから」
 信人兄ちゃんは本当に私に優しくしてくれました。自分は歯を食いしばって働いているのに、家でそんなそぶりを見せることはありませんでした。私はいたたまれなくて多美ちゃんと一緒に家事をやり始め、闇市にも出かけるようになりました。
 毎日本当に苦しい食生活でした。配給券でもらえるほんの少しのお米のために半日費やすということもざらでしたし、一日中何も食べられない日もありました。私はあっという間に痩せました。けれどそれに気づかなかったのは、多美ちゃんも信人兄ちゃんも含めて周りの全ての人が痩せていったからでしょうか。国民総栄養失調と言ってもよかったでしょう。私は皮膚炎がひどくなりました。多美ちゃんは風邪をひきやすくなりました。信人兄ちゃんは平気そうに振る舞っていましたけど、ある日私を泣かせました。
 信人兄ちゃんの背中からは肉がすっかりなくなっていました。病気じゃないのに、あばら骨が背中から見えるのです。はっきりと。多美ちゃんだってそうです。気がつくと、私もそういう体つきになっていました。

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