1945
Chapter4 [1/3]


「奈津、起きなさい。朝御飯よー。
 ……こら奈津、いつまでも寝てるんじゃないの。いい加減起きなさいったら。奈津! ……あら? ……奈津? ……」

 私の見ているこの世界は何なのでしょうか。夢と言うには想像を越えすぎていて、現実と言うにはあまりに受け容れがたいものがここにはたくさんあります。
……「奈津、お前料理だんだん上手くなってきたなぁ」
「わたしも手伝ってるんだよ。ねー」……
……「それじゃ行ってくる。戸締まり気をつけろよ」
「行ってらっしゃーい」
「今日はごちそう作るからね」……



 帰りたい。どこへというわけではないけれど。



 多美ちゃんを抱いたまま診療所の中で眠った私は息をするのにさえ疲れていました。お腹を膨らましたりへこましたり、それだけのことに体の力をかなり使わなくてはいけませんでした。薄暗い診療所の中では私たちはただ固有の病名を持たないだけの、衰弱した人間でした。私も多美ちゃんも信人兄ちゃんが爆発にやられてから何も食べていません。多美ちゃんは夕べ泣き疲れて起きる気力もありませんでした。服だってすっかりすすまみれになっていました。
 信人兄ちゃんはまだ生きているようでした。上半身を包帯にくるまれながら小さく呻いていたからです。お兄ちゃんだけじゃない。周りの患者さんたちも、死ぬ間際のところで呻いていました。言葉をなすものはどれも「みず」を求めているようでした。ここはその音と気絶しそうな異臭で溢れかえっています。
「お嬢ちゃん、大丈夫? あなたも顔色が悪いわよ」
 看護婦さんがわずかな水を持って患者さんの間を回っていました。私も患者に見えたのかもしれません。私は気を張って「大丈夫」と答え、水を分けて欲しいと言いました。多美ちゃんにも、信人兄ちゃんにも。
 けれど看護婦さんが水をくれたのは私と多美ちゃんの分だけ。私が自分の水をお兄ちゃんに少し飲ませようとすると、却って止められてしまうのです。
「今水を飲ませたら死んでしまうわ」
 看護婦さんはすまなそうにそう言って、信人兄ちゃんの様子を確認していました。遠くに他の看護婦さんたちが錆びかけたバケツとぼろ切れを持ってあちこちで床を拭いているのが見えます。
「……何か、お兄ちゃんにしてあげられることありませんか?」
 そう言うと看護婦さんはバケツに濁った水とぼろ切れを私に手渡して、私の手をしっかりとにぎりました。
「お兄ちゃんをきれいにしてあげて」
 私は看護婦さんの言っていることを理解した時、ふとお兄ちゃんが「殺してくれ」と言っているような気がしました。
 お兄ちゃんは、他の瀕死の人と同じようにずっと寝たまま動けませんでした。そうやってできはじめた床ずれの上に、垂れ流してしまった糞尿……もちろん、お兄ちゃんの……そういったものが、すっかり染みわたっていました。
 信人兄ちゃんの足を拭いてやりながら、私は歯を食いしばって必死に声を殺しました。私の目からは二人分の涙がこぼれていました。お兄ちゃんはかぼそい呻き声だけしか洩らしません。涙を流せるだけの水分も、思いを伝えるだけの力も、お兄ちゃんには残っていませんでした。
「お兄ちゃん、元気になったらうちに帰ろう。ね……」
 信人兄ちゃんはまだ生きているのに。生きたまま、人間の大切な誇りだけが失われてゆく。

 私はお兄ちゃんの体を拭き終えると、だんだん衰弱が激しくなってきた多美ちゃんを看護婦さんに頼んで配給を貰いに行かなくてはなりませんでした。
「もうお兄ちゃんはいつ亡くなるか解らないからね。なるべく早く帰って来なさいね」
 多美ちゃんは信人兄ちゃんの隣りに座って、不安げに私を見ていました。それでも私は行かなければなりませんでした。
「お姉ちゃん」
「……大丈夫だから。ご飯はみんなで食べようね」
 配給をもらうまで私の足もふらついていたのです。太陽の下に数時間も曝されて、気も遠のいて、袋の底に小さく溜まった生米をどれほどひっつかんで噛みしめたかったことか。
 私は食料を手にしたことで少しほっとして家路に就きました。これでお兄ちゃんや多美ちゃんを少しは助けてあげられる。

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