鎖とその男に関する記録
Chapter3-5 [1/2]


 ある日、タオは起きられなくなった。連日の疲労が溜まっていたらしく体がぴくりとも動かない。
「タオ、起きろ。朝食を用意してくれ」
 マリノが肩をゆすっても夢うつつのまま。
「起きるんだ!」
 寝ぼけ様に張り飛ばされる。鉛のように重い体を引きずって朝食を作り、塩を入れ過ぎたのかあっさり捨てられ、もう一度作り直す羽目になる。
 そして、水汲みの仕事へと出かけていく。最近風邪気味らしく気持ちが悪い。
「どうして遅刻した!?」
 自分が何を言ったか覚えていない。とにかくここでも殴られた。それから桶を担いで川と仕事場を十五往復くらいした。水を入れた桶は肩に食い込み、雨が降っていても傘は差せなかった。雨よけの服も着られなかった。足がよろめいて転び、水をこぼしてどやされ、頭をへこへこ下げた。
 食欲はなかった。何も食べなかった。薬を買おうとしたら高くて買えなかった。仕方なく食べ物だけ買って帰った。夕食は果物だけ食べた。
 寝ようとして、またマリノに付き合わされた。眠気が引かずに何度も殴られた。食べた果物を吐いてしまって、また殴られた。こうしていつもの一日が終わった。
 翌日、また起きられなかった。
 怒鳴られ、殴られ、家を出た。

 ふらふらふらふら歩いていると、不意に自分がどこへ行けばいいのか分からなくなった。
 太陽が眩しい大通り。頭の中は真っ白。暖かい空気が抱いてくれている。
 タオは大通りの中で倒れた。

* * * * *


「マリノさまぁ!! 大変だよー!!」
 子供たちが窓の所へ走ってくる。マリノはその時も窓辺でぼんやりしていた。ここの窓には、ちょうど陽があたる。
「どうした。何かすごいことでもあったか?」
 子供たちは息を切らせて大通りのほうを指差し、足をまごつかせている。
「マリノさまの、おくさんが」
「おくさん? そんな者はいないぞ」
「じゃ何でもいいよ、あの一緒に住んでるお姉さんが……」
 マリノは眉を曇らせた。よほど子供たちは慌てているらしい。
「タオがどうした?」
「大通りで死にそうなんだ! 早く来て!!」
 マリノは耳を疑った。子供たちの目は嘘をついていなかった。
 彼は靴も履かずに窓から外へ出た。子供たちと一緒に走って、見知らぬ路地を抜け、塀を乗り越えたりもした。体力の無さを思い知らされる。子供たちはどんどん先へ走っていく。足が痛い。
 それでも何とか大通りに出て、彼は次に目を疑ってしまった。
 大通りで死ぬ人間など珍しくもないということだろうか? 彼女が道の上で倒れていても誰も見向きもしない。ただ、子供たちがお姫様を囲むようにしゃがみ込んでいるだけである。夢中で駆け寄ってみると子供たちは道を開けてくれた。みんな不安げに彼女を見ていた。投げ棄てられた人形のように髪を乱して、だらりと四肢を置いている姿。
「大丈夫。気絶しただけだ」
 大きく息をついてしまった。思わず緊張の糸が切れて、変な顔になった。タオはちゃんと息をしていた。道端で寝ているのと何ら変わりなかった。
「タオ、起きろ」
 少し強めに頬を叩くと、子供の一人がそれを庇った。
「お姉ちゃんすごい熱だよ! マリノさま朝気づかなかったの!?」
 マリノが手を止める。
「熱?」
「そうだよ! 流行り風邪だったら早く薬買わないと死んじゃうよ!!」
 子供たちが騒ぎ出す。逃げ出す子も、泣きだす子もいる。マリノがタオの額に手を当てると焼けた鉄板のような熱が伝わってきた。喉が渇いているらしく、息も辛そうである。
「まさか。こいつは若いんだから大丈夫だろ。とりあえず起こさなきゃ」
「あれを見てもそう言える!?」
 子供の一人が指差した先には、路上で動かなくなっている「珍しくもない死体」がごろごろと転がっていた。若者も少なからずその中にいて、蝿をたからせていた。
 息が詰まって冷や汗が垂れた。
 奴隷の死は見慣れていたはずなのにである。
「タオさん死んじゃったらどうしよう」
 残った子供たちがぐずり出す。いきなり断崖絶壁に立たされた気がした。考えてもみなかった。
「とにかく、連れて帰ろう。私の家へはどうやって帰ったらいいんだ? 案内してくれ」
 マリノはタオを抱き上げようとして、人の体が意外と重いことを知った。
「おい、病人がいるんだ、手伝え」
 道ゆく人々にそんな口調で呼びかける。誰一人来ようとはしない。
「おい! 手伝えと言ってるだろ!!」
 一人の腕を掴むと、振りほどかれた。
「たかが”奴隷”に構ってる暇なんかこっちには無いんだよっ!!」
 そんな捨て台詞が胸を刺す。
 誰も助けてはくれなかった。
 彼は立ち尽くすしかなかった。

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