鎖とその男に関する記録
Chapter3-5 [2/2]


 マリノはタオを抱きかかえて、子供たちに案内されるがままに歩いた。
「お笑いだな。自分の家も分からない」
 裸足で走ったら足の裏の皮がめくれた。砂利も入っていそうだった。彼女の重さがそのまま激痛に変わる。自分は針地獄の上を歩いているらしい。
 休み休み歩いて何とか家に着くと、マリノはタオを床に寝かせてから自分の足を水洗いした。
 叫ばないように声を呑み込むので、精一杯だった。子供たちから見て「めちゃめちゃ痛そう」な顔をしていたらしい。消毒もできず、彼は膝歩きで動くしかなくなった。
「マリノさま、何かすることある?」
「そいつに、水を飲ませてくれ」
 子供の一人が水がめから水を持ってきてタオに飲ませてくれた。
「よし。後は何もしなくていい。もうお帰り。日が暮れる」
 マリノは夕暮れの中に座って子供たちを見送った。痛みをこらえて笑った。
 そしてすることがなくなった。
 通りの音さえ聞こえない。人は通らないし、鳥だってこの場所を避けている。久しぶりにタオの顔を見たような気がする。他に何も考えられない。

 醜い顔だった。
 何と醜い女だろう。顔は腫れ上がり手はカサカサで髪の毛も汚い。今までずっと美人だと思っていたのに。昔は確かに美人だったのに。自分の前でうめく家来など初めて見た。家来という仕事は主君に苦しみを見せず、醜いところを隠そうとするものである。
 それでも彼女は起き上がれない。
 手だけが微かに動いている。マリノはタオの横に座って、その手を取った。
「おまえの手はボロボロだね」
 昔は白魚のようにすべすべした手だった。貴族らしい暮らしをしていた頃、人の手はどれも彼女のように滑らかだと思っていた。それが今はすっかり荒れている。
「どうしてお前だけこうなった?」
 彼は閉口して手を握り続けていた。すべすべした自分の手。皮肉なほど健康な自分の体。心は前よりもずっと軽くて、膿が抜けたようだった。
 今日の彼女は夕食を作ってくれない。
 仕方なく、果物と野菜を丸かじりする。
 話し相手にもなってくれない。
 仕方なく、何も言わずに座る。
 抱けそうにもない。
 仕方なく、手を握って見守る。

 夜の闇の中で言葉が渦巻く。
「私がお前を食い潰しているのか? いや、お前が仕えているだけだ」
 疲れ果てた手を握っているのは自分である。
「お前は何が欲しい? 私は貴族だからお前に好きなものを買ってあげよう。金か? 地位か? 宝石か? そうさ、貴族はいつも何だって持っているんだよ」
 こんな時まで皮肉を言ってどうするのだろう。だが何もしないことが辛くてたまらない。
「そして苦しい時にはすぐにお医者と薬をつけてやる。栄養のある食べ物を食べて、すぐにお前は、よくなる」
 自分に皮肉を言っていないと、気を紛らわせていないと、おかしくなりそうだった。彼はやっと矛盾に気がついた。
「それが貴族の暮らしだ。家来はみんな金や権力に仕えているんだ。こんなみすぼらしい家でひっそり暮らしてるのは貴族なんかじゃ、ない」
 彼女の顔は自分が殴ったから腫れていた。自分が働かなかったから彼女の手は荒れ、すすけた髪を洗う時間さえ失った。
「それでもお前は私に仕えるのかい。確かに貴族の誇りはある。

 でも、それだけだ。お前に返してやれるものなんかない」

 マリノは理解できない感情に戸惑った。胸の中から液体があぶれてきて、座ったまま溺れ死にそうだった。
「お前のせいで私も病気だよ。息をするのが、とても苦しい。それから、胸がいっぱいで苦しいよ……痛みなら足の方がずっと痛いはずなのにな」
 息をしようとして上を向き、溺れないように口をぱくつかせる。恐怖が頭を支配し、何かがこぼれおちる。
「……」
 たすけてくれ。……この手まで亡くしてしまったら……
「死ぬのか、お前」
 亡くしてしまったらどうしよう。
 そう思った時、彼は子供になってしまった。どうしても両目からこぼれる涙を抑え、泣きやむことができなかった。
(私がたかが奴隷に、涙を……?)
 そう思っても苦しみは止まらないのだ。理屈抜きに悲しくて、怖かった。どうしたらいいのかわからなかった。
 マリノはそのままタオを起こさないように声を殺して泣き伏せった。寝つくまでにかなりの時間を要した。

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