Credo
Chapter2 [1/3]


 予約を入れたユースホステルで一泊すると、大介は次の日の朝もロビーの窓に汚れた雨粒を見ることになった。下り模様の天気はなかなか良くならない。朝からやや肌寒く、大介は重ね着したシャツの上に昨日と同じジャケットを羽織った。
 テレビから流れてくる日本語や、朝食に当然のように出てくる海苔や納豆や醤油が懐かしくてたまらなかった。同じ関東圏に弟が居を構えているが、連絡を入れるつもりはない。このままユースホステルで連泊した後、用事が済み次第米国へとんぼ返りする予定だ。おりしも弟は新婚で独立したばかりだった。
 財布の中には、米国に残してきた妻と一歳になる娘の写真が入っている。
 罪人が家庭を持つことで、また子を儲けることで、罪は加速度的に重なりを帯びたものへと変わってゆく。独り身の人間が犯す罪と妻子ある人間が犯す罪とではまるで桁がちがう。なのに世界は道徳など遥かに超越した場所で男に子を授け、人生には罪悪が立体的かつ自然芸術的に構築されてゆくのである。
 由加里はその日も車に乗って大介を迎えに来た。彼女は現在通訳や翻訳を仕事にしているため、比較的スケジュールの自由がきくのだという。大介は彼女の車の助手席に座って数年ぶりの日本の街並みを眺め、彼女と話をしながら警察へと向かった。
「その後、君のほうはどうだい。ステディな彼氏はできたかい?」
「全然! 頑張ってるんだけどねえ。ちょっとエンジンふかして喋ると、もう駄目ね。みんなやりこめられたみたいに感じるらしくて機嫌悪くなるわ」
「瞼の裏に浮かぶようだ。あと十年遅く生まれていたら君は才媛として引く手あまただったんだろうがなあ。生まれてきた時代が早すぎたよ」
「そうかな。──いつの時代でも、才媛とか女流とか女傑ってつく人に必要なのは母性かコケティッシュさよ。知性と一緒にどっちかで優れていないとのし上がれない。男社会をどうこう言う気はないけどやっぱり人類の半分には好かれたほうが得ね。外見はどうにでもなるけど、中身に色気が無いから話してるとすぐバレちゃうわ」
 信号待ちでハンドルに指を遊ばせながら由加里はワイパー越しにくすんだ街並みを眺めた。彼女には男特有の観念的な議論についてゆけるだけの知性と弁力があった──惜しむらくは、男の側が観念的議論の時間に彼女が割り入ってくることを拒むことだった。女の姿をして弁舌の内容が完全に男性的なのできまりが悪くなってしまうのだ。
「これ以上ロマンチックな女はいないと思うんだけどなぁ」
「愛憎差し引いても男としてはやっぱりレアリストな女性のほうが安心するもんさ。完全に同じレベルで『愛とは』『ポスト・モダン的友情とは』なんて議論できる女性だと、逆に地に足がつかなくて不安になる」
「最近の男の頭は軟弱すぎるわよ」
「心配しなくても君は十分可愛いよ。あとはそうだな、君のその知性を笑って許してくれる、器のでかい男を探すことだね」
 由加里は眼鏡の奥の目を細めながら肩をすくめて苦笑した。こうしたやりとりは学生時代に出会った頃から変わらない。
「そうね。あなたみたいに、そこそこ頭が良くてプライドレスな人がいいわ」
「俺は結構プライド高いよ」
「そう? じゃあそこそこ頭がよくて優しい人。あらどうしましょ。陳腐なリクエストになっちゃった」
「いっそアメリカ人とかフランス人とかどうだい。日本好きで悪くないのがいるぜ」
「個人主義の国か。考えとくわ」
 信号の色が変わるのに合わせてパンプスがアクセルを踏み込んだ。大介はハンドルを握る由加里の華奢な腕を眺めながら、米国の左ハンドルの話など他愛もない話題で目的地までの時間を潰す。二人とも煙草を吸わないたちだったので車内にはラジオから七十年代の洋楽ばかりが流れ、窓の雨の色と合わせて二人の間に哀愁めいた雰囲気を漂わせた。
「そっちのほうはどう? もう何年もご無沙汰だったけど」
「あっちで結婚して永住権をとった。娘も一人いる」
「あ、そうなんだ。おめでとう」
 自然な微笑を向けたあと、由加里の顔は急に水気をなくしてややしおれた。大介が憂いを含んだ顔で彼女を見返すと、彼女は路面に目をやったまままた遠くへと思いを馳せているようだった。
「奥さんは、知ってるの? あなたのこと」
「バイだってことは知ってる。今回の旅は、仕事だと言ってある」
「ふーん」
 窓の外の雨はけぶるような霧雨に変わっていた。ラジオの曲がフェードアウトしてDJのトークに繋ぐまでの間が、静かで、二人はシフトレバー越しに小さく息を潜めていた。だんだん悲しくなってくる息遣いだった。
「なんか、フォークが聴きたいな。貧乏フォーク」
「そうだね」

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