夢の最果て
Chapter4 [1/3]


 眠るサンゴの妨げにならないようにクローブは一晩中宿の洗面所で咳き込み続けた。汚染された肺はひたすら悪化していくだけだ。二度と戻らない。ヒスイが血だらけで使えなくなったクローブのマスクを洗ってみると、思ったとおり中にフィルターが入っていなかった。一人で祈っていたあの時にクローブが自分で抜いたのだろう。そして他の駄目になったマスクの中身と挿げ替えた。クローブはただ自分のマスクの中身をヒスイによこしただけだったということだ。
「死んだら元も子もないじゃんか」
 自分の愚かさをえぐる台詞にしかならなかった。どうして気づかなかったんだろう。何もない場所からいきなりきれいなマスクが出てくるはずはなかったのに。クローブのあの深海のような目を見た時に気づくべきだった。そんな都合のいい奇跡など、ありえないということ。
(クローブさんはサンゴを捨ててでも生きるって言ったのに)
 それを説得した時自分は何と言ったっけ。キャラバンの人たちなら、サンゴを捨てない? 海は人間を殺してまで目指す場所ではない?
 もっと前から自分が根本的に間違っていたかもしれないことをヒスイは認めたがらなかった。自分がサンゴを拾ったこと。賢者の石を売るなと言ったこと。まがりなりにもサンゴを連れて旅に出てしまったこと。クローブが全部その前に警告していたのに、自分は夢物語を強引に押し通した。
 クローブは、一言もそれを責めない。
 たとえ満足に会話する余裕があったとしても、彼はやはりヒスイを責めなかっただろう。
 青紫色の顔でうんうん唸りながら止まらない咳にさいなまれるクローブ。彼にはもう洗面台の前で立っている気力もない。あとは何日も窒息し続け苦しみ抜いて死ぬだけだとわかっていた。洗面台の前で椅子に崩れてもたれるように眠るクローブの背中を見ると、申し訳なさがこみ上げてくる。
 生き地獄に立たされるというのは、まさにこういうことなのだろう。生きている限りクローブに安らぎの時はもう二度と訪れない。眠るときでさえ楽になれないのだ。苦しそうな息遣いだった。



「きれいな空気が吸いたい」
 クローブはヒスイの抑止を無視する形で出立の準備を纏めていく。貧血を起こしている真っ白い顔にくまを浮かべ、咽喉をぜいぜい言わせながら休み休み動き続けるクローブの姿は誰の目にも明らかに切羽詰まったものになっていた。ヒスイがいくら休まないと体に障ると言っても、きかない。今の彼には一秒の価値が宝石よりも重い。
「わかったよ。じゃあ俺も行くから。準備とか、そういうのもやるから」
 多分あっという間にその時はやってくる。燃え尽きかけている流れ星のように、ぱっと光ったら次の瞬間には永遠に見失っていることだろう。だからこんなくすぶった町の片隅で死んでいくより最後まで歩き続けようとするクローブの選択は、おそらくは最も誇り高い、そして正しい選択なのだ。
 ヒスイはクローブに代わって手早く準備をしながら自分がクローブに何を言うべきかずっと考えていた。時間は宝石よりも貴重なのに、そういう時に限って腹立たしいほどのろのろとものを考えている自分がいる。沈黙している暇などないはずなのに。
「海へ、行くんだよな。海へ行ったらマスクを外して息を吸って」
 そこにはきっとクローブを助けてくれるきれいな空気があるのだ。きれいな空気ってどんな味がするのだろう。どんな匂いをしているのだろう。色や形はあるのだろうか。音は出るのだろうか。触ったらどんな触り心地を返してくれるんだろう。
「もういい」
 ヒスイの感傷的な思いやりをクローブは乱暴な口調で拒絶した。ヒスイは断ち切られた言葉をそれ以上繋げようとはせず、クローブの姿を視界から外すようにして荷造りを進めた。てきぱきとリュックに必要最低限のものだけが詰められてゆく光景にクローブの苦しそうな声がずっと漏れてきて、耳から離れない。
「何でサンゴ助けたんだよ」
 自分は一体何を言っているのだろう。サンゴを助けろと言ったのは、他ならぬ自分だった。そのために命を捨ててもいいというおまけまでつけた。
「俺にもわからん」
 手を止めてクローブを見ると、クローブは今にも死にそうなやつれた背中を必死に上下させている。
「ただ、キャラバンの男ってのは、そういうもんだった。お前言っただろ。俺のこと、キャラバンの末裔だって。あの時……おかしくてなあ。昔を思い出した」
 どうしてみんな夢をあんなにあっさりと諦めて死んでいけたのか。優しかったがゆえに夢に届かなかったキャラバンの人々を想う時、クローブはいつも悩み続けて生きてきた。自分が最後の一人であることの意味を。彼らの夢を叶えることと彼らの末裔であり続けることは、悲しいことに同じ路線の上には無かった。

次[#]
戻る[1]
Copyright © 2009 桔梗鈴