一夜の夢 [1/2]


「多分ね、私の場合は羊水から冷たかったのよ」
 何気なく放たれた言葉の内容をくそ真面目に考えてみると、彼女の母親は彼女が生まれる前から死んでいたということになる。もちろん彼女がそんなつもりで言ったわけではないのは知っていたが、どこか納得してしまうものを感じた。
 八月の深夜のさなかに羽月の体は無人のプールの中であてどなく浮かんでいる。水着のままちょうど寝転がる感じで虚空を見上げて、腰まで届く黒髪は水の中で蜘蛛の糸のように広がり寄ってくる何者かを絡めとるためにあるようだ。塩素に晒されてわずかに充血した瞳。この夏場なのに不自然に白い肌は、綺麗に水を弾いてなかったら死体のそれとまるで変わらない。
「羽月ちゃんはいつ見ても全然日焼けしてないよね」
「……ずうっと、家にいるから。泳ぎに来るの夜だけだし」
「幽霊みたいだ」
「馬鹿ね」
 投げ遣りな調子で耳元を撫でる低音の囁き。
 龍彦は無言で笑って肩をすくめた。



 榎本 羽月は一言で言えば「おっかない女」だ。並外れた美人にも関わらず寄っていった男がみな病気になってしまうので大学内では有名になっている。病気といっても性病や伝染病の類ではなくて、肺や気管支を患うというのだ。内臓を傷めた輩も多い。
 龍彦のようにこわいもの見たさで羽月に寄っていった人間ははたして何人いるのだろうか。絞った真っ黒な髪にバスタオルをかける羽月の手足はさながら白い蜘蛛の手足を彷彿とさせる。手を出したらあっけなく組み敷けるだろうに、それだけでは済まないという静かな警告が全身から滲み出ていた。



「あのさ」
「何」
「羽月ちゃんてモテるよね」
「そう?」
「うん。それで寄ってった男がみんな病弱になるって噂があるんだけれども。……知ってる?」
「ああ……」
 そのこと、と羽月には思い当たる節があるようだ。
「何だかみんなそうなってしまうみたいね」



 三十メートルおきに蛍光灯の光る夜道を並んで歩いた。二人して白いTシャツと短パンという飾らない姿。安物のサンダルが足の動きに伴ってずりずり規則的に擦れている。
「体質なのよ。私が居ると周りに湿気が集まってくるの。いつも周りがじとじとしているわ」
 おかげで水場の近くでなければ暮らせないのだと羽月は言った。早くも彼女のTシャツはうっすらと湿って、下の細すぎる肢体を透かし始めている。空気はそこだけ蒸し暑く、自分の衣服も気がつけば全体的に湿り始めて肌にぴったりとくっついていた。
 徐々に二人の間に湿気が増していく感覚というのは、ひょっとしたらそれだけで人の心を惑わせるのかもしれない。つまらない世間話をしながら龍彦は何度も羽月の体を眺めた。羽月のスレンダーな体型は決して龍彦に食指を動かさせる類のものではなかったが、いかんせん肌が今にも濡れそうに艶めかしい。青紫色だった唇も時間を経るにつれ血の気を取り戻してほの赤くなりつつある。



「湿気があるせいよ。体温がいつも下がってしまう」
 視線を落としている羽月からはプールの塩素の匂いがする。
 自分の体ばかり面白いようにどくどく熱くなる。

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