一夜の夢 [2/2]


「羽月ちゃん。これも噂なんだけど」
 龍彦は単刀直入に”頼んだらやらせてくれるって本当?”と尋ねてみた。そういう噂があるのは事実だ。むしろ龍彦などはそちらを目当てに彼女に近づいたようなもので、向こうから見てもはっきりそれとわかるオーラを出しながら話しかけたつもりだった。
「嫌な湾曲の仕方だわね」
 家にいると寂しいって言ったら、みんなついてくるんだもの……羽月は肯定もしなければ否定もせず、ふわりと龍彦の前を歩きはじめる。龍彦が黙って後を付いていっても彼女は嫌がらなかった。彼女が少し離れるのを合図に龍彦の周りからはじとじとした空気が消えてゆき、八月の残暑が衣服を少し乾かすのがわかった。
「一晩でも何でも、埋まればいいのよ。寂しいのが埋まればそれで」
 ありがちな、くだらない身の上話を聞いた。
 この体質のせいで友人ができなかったこと。代わりに痴漢の類や体目当ての男ばかりナメクジのようにまとわりついてくること。両親はそんな自分に一生懸命よくしてくれたが、去年の冬とうとう体を病んで別居した。今はアパートに一人暮らしだという。
「それじゃ一晩だけお邪魔しますよ」
 深入りして彼女の境遇を癒せるはずはないし、またその気もない。龍彦は軽い気持ちで傍に寄って羽月の手を握った。羽月の手は火照っている龍彦の手とは対照的に冷たく、湿気を得てぴたりと龍彦の手から熱を吸い取っていった。
 結局、それだけなのだ。
 体温を分けるだけ。男と女にできることなど。



「一晩だけで済むなら、誰も病気になったりなんかしないのに」
 羽月の声は一瞬だけ哀しそうに響いた。
 しかしそれはあっという間に押し殺される。龍彦が聞き返そうとして彼女を見ると、羽月の顔はまた綺麗な昆虫のように何も言わなくなってしまっていた。
「病気になった男の人たち、みんな大丈夫だった?」
「あ? ……ああ」
「そう」
 うちの両親ね、肺に黴(かび)がふいたの。
 私が哀れなのか、出ていっても何度も様子を見に来てしまう。そのうち黴にやられて死ぬような気がする。
「寄ってくる男も増えてきている気がする。止せばいいのに病気気味の体を引きずって来るのよ。もう会わないって言っても来る」
 流すような調子で羽月はアパートの鍵を開ける。
 じっとりした空気はドアの開閉にもまるで動かず、部屋の中を覗いた龍彦の身体にはわけの分からない汗がぽたりと滴っていた。



 黴の匂いが鼻から気管支へ、そして肺へと流れ込んでくる。
 闇色のアパートの中には入り口からでも分かるくらい無数の染みができていた。奥にあるクローゼットの上には両親のものとおぼしき写真立てが二つあり、どちらもガラスが湿気で曇りきって雫を垂らしている。中の写真は濡れそぼった挙句に完全に変色し、フレームの金属は錆びきっていた。
「どのみち、私のせいじゃないわ」
 羽月の瞳は無感動なまま霞んでいた。彼女は息を呑んで立ちすくんでいる龍彦の首筋を細い腕で絡めとり、そのまま部屋の中へ招き入れて鍵を閉めた。

【End.】

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