環状線 [1/3]


 志摩子が転勤族の親に連れられて東京に引っ越してきたのは、小学校が春休みに入った三月末のことであった。
「向こうに着いたら新しい小学校を見に行こう。どんな学校なんだろうね」
 両親は慣れたもので、十年物の白い自家用車で高速道路を飛ばしながら忙しそうにこれからの予定を確認しあう。両親にとって前任地で過ごした二年間などたいした重さもないのかもしれない。志摩子は貝のように口をぴったり閉ざし、窓の外を流れる早回しの映画のような都市を眺めていた。

 あの場所を離れたくなかった。
 志摩子が二年間住んでいた鹿児島には大好きな友達がたくさんいた。一年中霧灰を降らせ続ける雄大な桜島と、フェリーから見られる藍色の大海原と、灰に傘を差しながら元気いっぱいに遊んだ少女たちの姿と──言えばきりがないが、そのどれもが志摩子にとってなくてはならないものだった。
 志摩子の居場所は一年か二年ごとに根こそぎ変わってしまう。我が家はそういう家なのだと受け容れているが、引っ越しが決まると彼女はそのたびにひどい不安と悲しみにさいなまれるのだ。転入して新しい友達ができるまでこれが続く。そして一年か二年かしてやっと関係が安らいだときにいやらしく次の引っ越しが決まる。
 物心ついてから五回目の引っ越しにして志摩子はついに行動を起こすことにした。四月から小学校五年生になる彼女には、ようやく己に降りかかる理不尽さの歴史が理解できるようになっていた。

 引っ越し先の新居に着いて三日目で、志摩子は自分の缶型貯金箱を切りあけた。五百円玉から一円玉までさまざまな硬貨が溜まっていたのを全部かき集めて自分の財布に入れ、引っ越した時と同じコートを着て家を出る。
「志摩子、新しい学校へ挨拶に行くわよ」
 母親が化粧を終えて志摩子の部屋を覗いた時には、志摩子は家から百メートルも離れて近くの駅を目指していた。そのまま電車に乗って鹿児島にまで帰るつもりでいた。
 道ゆく人に声をかけ、駅までの道を尋ね、志摩子は駅に着くまで鉄の意志で歩き続けた。駅までは子どもの足で四十分ぐらいかかっただろう。本人にはそれだけでもかなり長い道のりだったと思われる。
「お嬢ちゃん、ごめんね。お金が足りないんだ。子ども料金で東京から鹿児島まで新幹線に乗るんでも八千円以上はかかるよ。お嬢ちゃんの分はほら、三二七九円だ。お年玉の余りも入れたのかな。よく貯めたね」
 一生懸命小銭を数えてくれた駅員のすまなそうな一言で志摩子の野望は脆くも崩れ去った。虎の子だった貯金箱の中身が足りないのではこれ以上どうしようもない。もう両親は鹿児島へ自分を連れていってはくれないだろう。大好きだった安住の場所へ帰れないことを痛感させられて、志摩子は思わず泣きだしそうな気持ちになった。
 財布を抱きしめて街の中に立ち尽くす。街には昼休みにありついた会社員や労働者の姿があふれ、春の陽射しの中で地元の子どもたちが笑いながらお菓子やファストフードを食べている。眺めていると急にお腹がすいてくる。
 志摩子は自分が家への帰り道を知らないことに気づいた。親に探知されることをおそれて、自分が携帯を家に置いてきたことにも。

 ここで彼女の顛末を語るにあたって、もう一人ある少年のことを語っておかなければならぬ。彼は志摩子と同い年で、志摩子が向かっている駅の前のコンビニエンスストアで立ち読みをしていた。同じコンビニに置いてある本を読める分はすみずみまで立ち読みし、それでもなお行くあてのない少年だった。
 彼はその日も夕方までその場所にいたが、駅前の段差に座って何時間もそのまま路傍を眺める少女の姿はコンビニのガラス越しに浮いて見えていた。大人びた顔立ちは六年生か中学生くらいに見える。午後になっても日が暮れ始めても少女を迎えに来るものはない。少年自身もコンビニの店員にそれとなく声をかけられ、そろそろコンビニを出なければならなくなっていた。
 しぶしぶコンビニを出ると、少女は小柄な中年の男に声をかけられていた。いつもの少年なら素通りしてゆく光景だった。少女の顔と雰囲気で解るのだ。あれは親や知り合いの類ではなくて中学生から女子が始めるという大人の男相手の金稼ぎの類だ。少女にはそのつもりが無くても大人にはそれをアテにして女子と遊びたがるやつがいるのだ。少女は中年の男に手をとられ、不潔なものに触ったかのように顔を歪めて後じさりした。

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