環状線 [2/3]


 まったくの日常なのだ。それが。少年には泣き喚くチャンスもなければ怒るチャンスもない。学校では何かあった時のために全員の子に警報ブザーを配っていたけどみんなあれはオモチャだと思っていたし、自分の命が危険に晒されるなんて人生に一度あるかないかだ。鳴らすチャンスが無い。
 駅の前の少女は要領が悪かった。執拗な男の誘いをうまく振り払うこともできず、「助けて」とも言えないで不安げな顔をしていた。周りの大人や学生たちが気づかないですり抜けていく様を眺めていると、それは何でもないことなのだと思ってしまう。
 少年は一瞬自分に腹が立って二人の所へ歩き出した。
「おじさんと一緒に遊ばない? お金の心配はしなくて良いよ」
 やっぱりだ。聞けばすぐわかるのに誰も気にすらしてない。少年は少女と中年の横に立ち、携帯のストラップに結びつけてあったブザーの紐をひといきに引き抜いた。
 けたたましいブザー音が辺り一帯に鳴り響き人々の視線がいっせいに自分の所へ集まった。

 中年の男が慌ててその場を逃げ去ってゆき、少年が紐を戻してブザーを止めると周りの人間たちはそれぞれに自分の中で勝手なストーリーを作り、完結させ、納得してまた自分の道を歩き出すのだった。
「大丈夫?」
 少年は少女に声をかけた。少女の名前は志摩子といった。
「ありがとう。うまく断れなくてどうしようかと思ってたの。あなたは?」
「克巳」
 克巳と名乗った少年はブザーのついた携帯をポケットに捻じ込みながら、自分が昼間から志摩子の姿を見ていたことを伝えた。志摩子が自分と同じ学年だと知った時にはちょっと驚いた。不安な中にも肝が据わっているというか、堂々としたところのある性格らしい。
「鹿児島に行こうと思ってたの。でもお金が足りなくて」
「鹿児島?」
「引っ越してきたの。おとといの前の日」
 志摩子はそわそわと改札口を眺めている。まるで自宅の玄関があの向こうに繋がっているとでも言わんばかりだった。克巳はさっきまでの年上じみたイメージと志摩子の言う計画の幼さのギャップに内心目を白黒させていた。
「電車に乗りたい。行けるかどうかわからないけど、でもとにかく電車に乗らなきゃ絶対鹿児島に帰れないのは確かだわ」
「鹿児島ってどこだっけ」
「すごい遠く。新幹線で八千円以上かかるところ」
「げえ。親に連れてってもらえば」
「無理よ。私は親にここまで連れて来られたんだもの。自分でやらなきゃ、きっと帰れない」
 克巳にしてみれば、志摩子が鹿児島に帰れないことはもはや明らかだった。にも関わらず改札口を見据えて動かない志摩子の強さを彼はうらやましく思うと共に、できるところまでは叶えてやりたいなと考えた。
 ポケットをまさぐると、百円玉が一枚入っていた。七十円で入場券を買えば電車のホームまでは行けないこともない。
「志摩子はお金いくら持ってるの」
「三二七九円」
「じゃあ、乗っちまえよ。七十円あったら電車には乗れるよ」
「え! 本当?」
「ほんとさ。降りて駅の改札口出るときに金がかかるんだぜ、あれ。だから”改札口からさえ出なければ”電車の続く限りどこまででも行けるよ」
 不思議と志摩子の顔にも克巳の顔にも笑顔はなかった。それでも志摩子は可能性に賭けるようで、迷わず入場券を買った。克巳は自分も七十円で入場券を買うと側の売店で十円のチョコをばらばらに三つ買い、ジャンパーのポケットに放り込んだ。
「東京駅ってどうやって行くの」
「上りの電車に乗って、途中で山手線に乗り換えるんだ。緑のラインのやつ」

 日の光が空に吸いこまれて消えかかっていた。志摩子と克巳はほとんど喋りもせず、両開き扉の側に立って窓の外や車内のビビッドな彩りの広告などを眺めていた。途中で乗り換えのために電車を降りた。志摩子と克巳は駅の階段を下り、山手線のホームを目指した。
「東京駅についたら鹿児島行きの新幹線で、一番近い駅までの切符を買ったらいいよ。そしたら新幹線の改札を通って鹿児島駅までは行けるんじゃないかと思うんだけど」
「途中で車掌さんが回ってきたりしないかな」
「ああ、そうか。それヤバいかもしんない。そしたらトイレに隠れるとかしたら」
「克巳君は来てくれるの」
「俺は行かない。あんまり遠くまで行くと、帰れなくなるし」
 東京駅の新幹線の改札の所まで行ったら、さよならだ。
 克巳がそう言うと志摩子は心細い顔になって、うつむいたままステンレスのバーを握った。
「携帯持ってないの?」
「家に置いてきた。私の携帯、持ってたら居場所がわかっちゃうやつだから」
「GPSつきのやつ?」
「そう。もともとあんまり好きじゃなかったんだ。いつも見張られてるみたいで」

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