環状線 [3/3]


 克巳と別れて、また一人になった時に志摩子には身を守る術がない。さっきみたいに変なおじさんに声をかけられ付きまとわれたらどうしよう。引っ越してきたばかりの彼女は東京の家の電話番号も知らず、何かあった時に頼れるものがなかった。
 山手線に乗ってしばらくすると、克巳は志摩子の様子をうかがって言った。
「志摩子は山手線って知ってる」
「知らない」
「山手線はさ、一つの輪っかの上をぐるぐる周り続ける電車なんだよ。始発も終点もない。だからうっかり一つの駅を乗り過ごしても、そのまま座ってるとぐるっと一周してまた同じ駅に着くんだ」

 少年は東京駅から先で少女を守ってやることができない。何事もなく鹿児島へ行くのもどだい無理な話で、彼女は多分新幹線の中でそれを思い知らされるだろう。その時彼女はひとりぼっちで、何も彼女を守ろうとはしないだろう。
 少年はどこかで少女を止めなければならなかったが、一方で彼女の気持ちをよくよく理解していた。だから彼は「無理だよ」とも「帰ろう」とも言うことができなかったのだ。



 街の上に夜のカーテンがかかり、山手線の車内はいよいよ家路につく大人でぎゅうぎゅう詰めになってくる。液晶画面のアナウンスが東京駅の接近を告げていた。志摩子が人の塊の揺れに耐えて不安げに克巳の姿を捜すと、彼は大人たちに押し潰されながら志摩子の方を見て笑っていた。
 東京駅のホームで電車の扉が開き、志摩子は人の群に流され、押し出されるようにして駅のホームに下りた。克巳は電車を降りない。何も言わず、電車の中に留まって志摩子をずっと見ている。
 ホームに発車前の電子音が鳴りわたる。
「克巳君、東京だよ。降りないの」
 克巳は返事をしない。それは彼にとって一つの賭けのようなものだった。志摩子は混雑する駅のホームで迷った挙句、扉が閉まる直前にもう一度電車の中へ乗り込んでしまった。



 地面が大きく一揺れして、電車が進みはじめる。志摩子は後ろへ遠ざかっていく東京駅を見送りながら「ああ」と声にならない声を洩らした。
「何で戻ってきたの」
 志摩子が質問するよりはやく克巳がたずねた。
「志摩子は東京駅で降りて新幹線に乗るんだろ。俺と一緒にここに乗ってたらおかしいんじゃない」
 少年の目はぬるく、志摩子を責めもしなければいたわりもしない。
「だって克巳君が降りなかったからよ」
「俺はどうせ降りたって改札までしか行かないぜ。だったらさっきあそこで別れたって同じだったじゃないか」
 志摩子は言い返すことができなかった。さっき出会ったばかりのこの少年のことを、彼女は知らず頼りにしていたのかもしれぬ。気まずい顔をして志摩子が克巳から目を逸らすと、克巳は僅かな沈黙の後で志摩子から目を逸らして体をバーにもたせかけた。
「いいよ。俺と一緒じゃなきゃ降りて行けないってんなら、何度でも。俺はこの電車で何週でも東京駅まで周り続けてあげる。勇気が出るまで乗ってたらいいよ」
 電車の中は適度な空調が保たれドアの開閉にあわせて空気を少しずつ入れ替える。人がまばらになった隙に二人が車内の席に座ると、あとは永遠とも思える時間が流れた。途中で克巳の携帯が鳴り、克巳は志摩子の隣りで電話に出た。どうも克巳の母親が心配して電話をかけてきたようだった。
 克巳は「友達といる」と言って適当に母親を言いくるめ電話を切った。
「お母さん?」
「心配ない。いつものことだから。
 塾や習い事をしてる奴はこれぐらい遅くたって当たり前だし、うちはどうせどこにいるかわかったって追いかけてこない」
「GPSついてるのそれ」
「ついてるけど、平気だよ。みんな俺が遅く帰るのに慣れてるし」

 山手線には、絶えず人が乗りこみどこかで降りていく。志摩子はもう東京駅で降りる気をなくしていた。克巳はぼんやりと志摩子の隣りに座っている。電車はどこまでも止まらずに駅での停車と発車を繰り返し走り続けた。
「終点がないのね。この電車」
「ないよ」
 悲鳴をあげるほどひどいことも起こらず、心ときめくようなことも何もない。誰かが必死に自分を追いかけてくることもない。志摩子は克巳のポケットから飛び出ている警報ブザーに目を取られた。けれどそれは、今は引っ張ってはいけないものだった。克巳は自分を見つけなかったらどこへ行くつもりだったのだろう。鳴らしてはいけないブザーをポケットから飛び出させて、一人で街をふらふらしていたのだろうか。
「ごめんね、私のために」
 志摩子は自分の母親が心配しているかどうかということより、自分のせいで克巳に迷惑がかかることを済まなく思った。
「かえろうか」
 克巳は、志摩子がそう言いだすのを待っていたのに、実際にその言葉を聞くと何ともさびしそうな顔をしてうなずいた。

【End.】

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