コーティング・アイビー [1/4]


 あなたはツタ屋敷を見たことがあるだろうか。洋館づくりの一軒家の外側にツタがびっしりとつるを伸ばして生い茂っていて、まるで建物自体が生き物になりかけているような屋敷のことだ。
 話のはじまりは町の中にある古びた大きな屋敷からだった。その屋敷にいつ人が住んでいたのか今では誰も知らない。特徴的なのはその屋敷のある敷地が表の門の鉄枠に至るまでツタに覆われていることで、学校帰りの子どもたちは口々にその屋敷のことを「おばけ屋敷」と呼んでいた。
 おばけ屋敷。
 ツタ屋敷には硝子の割れた窓がひとつあって、外から見上げるとそこだけが真っ黒な口を開けているように見える。



「それでね、あそこのおばけ屋敷なんだけど、やっぱり出るんだって」
 昼休みの教室の中だった。歌子はお弁当に手をつけながら友達の沙耶香の話を聞いて、彼女の大袈裟な怪談話に箸をとめた。もう中学生なのにこの手の話やうわさ話になると沙耶香は急に夢中になる。
「出るって、何が」
「おばけ。うちの学校でも何人かが見たんだって。おばけ屋敷の塀の前で遊んでいるとさ、ほら、あそこ窓が一つついてるじゃない。あそこに人影が立つんだって」
 あばら家の窓に人影が立つという話は怪談の中では特にありきたりで、歌子は最初その話を沙耶香のでっちあげではないかと思ってしまったほどだった。件のツタ屋敷は歌子も知っている。通学路の途中で毎日あたりまえに通り過ぎる場所で、確かに少し不思議そうではあるけれど慣れてしまえばどうとも思わない建物だった。
「ほんとに幽霊なんか出るの?」
「ほんとだって! 面白そうだよね」
 ツタ屋敷の割れ窓はいつも中が真っ暗で何も見えない。想像していて歌子は少し怖くなった。本当に幽霊がいるなんて思わないけど、知らなくてもいいのにわざわざ人を怖い気持ちにさせる怪談は無い方がいいと思う。
 沙耶香は何にも考えないで楽しそうに話をするし、授業や部活の時間をこなしていると下校時間になってしまう。歌子は今日の帰りもツタ屋敷の前を通って帰らなければならないのに。

 真っ赤な西日の中をあたたかい春風の波が押し寄せ、砂埃を巻き上げながら町中の木々をざわめかせていた。歌子は部活が終わると友達と一緒に学校を出て、そのまま友達と別れて一人になるまでツタ屋敷のことを忘れていた。歩き続けてツタ屋敷が視界に入った時に彼女は久しぶりにその屋敷に注意を向けたのだ。
 ツタ屋敷のある敷地は急速に暮れていく空の中でぶるぶると震えていた。表面にまとわりつく無数のツタの葉が絶えず風をうけて小さく上下する。歌子は屋敷の前で足を止めると、塀越しに二階の割れ窓を見上げた。
 派手に硝子が割れたままの窓の向こうには誰もいない。もう何年も、何十年もあのままなのだろう。あまりにもたくさんのツタが複雑に絡み合って人間の力ではとても中に入れそうになかった。
「やっぱり。誰かがいいかげんな怪談を作っただけだったんだわ」
 試しにしばらくその場で待ってみたが何も起こる気配がない。ときおり砂埃が目に入って痛かった。歌子はハンカチで目元をぬぐいながら塀のツタの葉をもてあそび、何枚か生きた葉をちぎってその鮮やかな緑色や、はしばしの虫食い具合に見入っていた。
「やめて。はっぱをむしらないで」
 風にかき消されそうな奇妙な声が、どこかから聞こえた。男の声なのか女の声なのかもわからない。虫が囁くような声だった。歌子の視線は手元の葉から二階の割れ窓に吸い寄せられた。彼女は思わず息をのんだ。さっきまで何もいなかった窓の中に暗い毛むくじゃらの輪郭が立っていた。
 いや、毛ではない。ツタの葉だ。それは全身をツタの葉に巻きつかれて元の姿を失った、人間の輪郭。
 一瞬のことだった。気がついた時には歌子はその化け物から逃げ出していた。一も二もなくそのツタ屋敷からより遠くへ離れて、一刻も早く安全なお家に帰ること。それしか彼女の頭の中にはなかった。
 歌子は全速力で走り続けて彼方にある自宅の玄関に駆け込み、重いドアを大きな音をたてて一気に閉め、「おかえり」という母親の声を聞いて安心してからやっと思い出したように悲鳴をあげた。

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