コーティング・アイビー [2/4]
見てはいけないものを見てしまった。
歌子は悲鳴をあげた後驚いて飛び出してきた母親に「なんでもないの」と取り繕って、自分が手の中に強くツタの葉を握りしめていたことに気がついた。葉っぱの破れた所から真っ青なツタの葉の汁が自分の掌を染めている。
「きゃあっ!」
慌ててドアの外に葉っぱを捨て、またドアを固く閉ざす。廊下に鞄を放り投げて慌てて洗面所に手を洗いに行った。
「歌子、一体どうしたの。何かあったの?」
「お、おばけ見た。おばけ」
いつもはおばけの話など全くしない歌子のことだ。母親は彼女の言っていることがよくわからず不安げに首をかしげていた。洗面所で手を洗う仕草も水をはね散らかしたり石鹸を何度も滑らせ落としたりと落ち着きがない。
「あ! どうしよう」
歌子は手を洗いながら急に声をあげると、タオルで手を拭いてすぐにポケットの中をまさぐった。歌子は家に着く前のどこかでハンカチを無くしていた。もしかしたらツタ屋敷の前で落としたのかもしれない。あの時自分は目が痛くてハンカチを出したから。
取りに戻るべきか? とんでもない! 歌子にはとても一人であの場所に戻る勇気がなかった。ハンカチは残念だけどあきらめよう。戻ってあの化け物に出くわしたら今度こそ襲われるかもしれない。自分がハンカチをあきらめてしまう方がよっぽどましだ。
歌子は二階の自分の部屋でベッドに入ってからもツタ人間のことが気になっていつまでも眠れなかった。真っ暗闇の部屋に立つおどろおどろしい人の形を成したツタの塊。虫の囁くような言葉も、思い出すたびに背中に冷たいものが走る。
”はっぱをむしらないで”
生きているんだ。あのヒトガタが生きていて屋敷を見張っているのか、屋敷中のツタがあのヒトガタと一緒にひと連なりになって生きているのか、どっちだかわからないけれど。
窓の外には満月が煌々と輝き、町全体がほのかな銀色の光のヴェールで包まれている。歌子は眠ろう眠ろうと自分に言い聞かせ身体を丸めている。やがて眠りの国の妖精が大きな腕で彼女を底のない世界へ抱き下ろしてゆく。
さて、驚くなかれ。ツタの不思議な出来事は続くのだ。
きっちり閉めて鍵をかけたはずだった部屋の窓が開いている。真夜中に頬を撫でる風を感じて歌子は目を覚ました。人の気配のない静かな部屋。
窓側に寝返りを打つと、枕の端にツタの先っぽが伸びていた。辿っていくとつつましい若葉が茎をさかのぼるにつれ青々とした大きな葉の群になり、やがて隙間のあいた窓の外へと続いているのだ。歌子はその先を見ようとした。そして信じられない光景に大きく目を見開いた。
窓の外に緑のヒトガタが立っていた。目も耳も口もない、ツタの塊の化け物。化け物は緩慢に動いて窓枠に手を掛け、部屋の中に入ろうとしていた。悲鳴が悲鳴にならない。パジャマ姿のままベッドから転げ落ちた歌子は夢中で逃げ出そうとした。
「まって いかないで」
人間の声とも思えない不調和な音が響く。緑の塊が窓を押し開け厚手とレースのカーテンが夜風で大きく波立つ。腰が抜けて立ち上がれない。四つんばいで逃げまどって部屋の壁にぶつかった歌子が歯をがちがち言わせていると、ツタの塊はなおも彼女に向かってゆっくりと動き続けた。もう駄目だ。出会ったのが運の尽きだった。このまま彼女は化け物に食われてしまうのか。
「いかないで わすれもの」
ツタの化け物は手の形をした部分を突き出すと、巧妙に先のツタを動かして手の塊の中からたたまれた一枚のハンカチを出した。
見慣れたチェックの柄。それは歌子のハンカチに間違いなかった。ツタの化け物がハンカチを差し出してぴたりとも動かなくなったので、歌子は歯の鳴りが止まるまでしばらく何が起きたのかわからずにいた。
「……ハンカチ? 届けてくれたの?」
ツタの化け物は、頭を傾けてうなずいているように見える。おそるおそる歌子がツタのむした手からハンカチを取ると、今度は部屋の真ん中に座り込んでおとなしくしているのだった。よく見るとヒトガタ自体の大きさもそれほど大きくはないようだ。人間の大人の男より一回り小さいくらいだろうか。
歌子は家族を呼ぼうかと思ったが、しばらく考えて人を呼ぶのをやめた。この顔のない塊はどうも悪い意志は持っていないようだ。帰らないで座っているということは、まだ何かしたいことがあるのだろうか。歌子相手に?
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