コーティング・アイビー [4/4]
少年はどこでこんな無垢な笑顔を覚えたのだろう。それとも人間も草も、誰にも教わらずに最初から笑顔を持って生まれてくるのかしら。少年が笑った時、一緒に彼の胸のあたりから小さな光が漏れた。厚い胴体のツタの層の下で彼の心臓が生まれようとしているのか。
ツタ少年は来たときよりも軽い動きで立ち上がると、入ってきた窓枠を再び乗り越え外へと出ていった。
「ウタコは明日もまた来る?」
「来るって、あのツタ屋敷へ?」
「そう」
「多分、通ると思う。学校の通り道だから」
この少年は明日以降もあのツタ屋敷で歌子のことを待っているのだ。誰も居ない夜の道を歩き去るツタの塊を見送った後、歌子は眠りながら彼のツタが左手の先に絡む感覚を夢に見た。
翌朝からの歌子の態度は、昨日の怯えようが嘘のようにしゃんとしていた。あまつさえ淑女の真似までするようになっていた。いつもより繊細に丁寧に顔を洗い、髪をゆっくりと梳かし、制服のブラウスにのりがきいているかどうかを気にした。歌子は色つきのリップクリームを持っていなかったが、代わりに無色のメントール入りのリップクリームをまめに塗ることを忘れなかった。
通い慣れた通学路がいつもと少し違って見えた。住宅街の屋根に並んで遠くにツタ屋敷の青葉の屋根が見えてくると、胸の鼓動がいつもよりほんの少し早くなっているのを感じた。朝のツタ屋敷は全身の緑からみずみずしい酸素と水分を発散し、日の光に鱗じみた葉っぱを輝かせていた。
彼女は屋敷の前を通りながら塀のツタに軽くタッチした。
「また、あとでね」
窓の方を見上げてあっと声をあげそうになった。割れた硝子が光の線を描く向こうに、少年が上半分だけ顔を出して無心にこちらを見ていた。朝は人通りがあるのに他の人間に見つかるというところまで考えが及んでいないのだ。隠れてほしい一心で歌子がうなずくだけうなずくと彼は無邪気にツタが半分巻きついた右手でこちらに手を振った。
歌子は秘密を持つ少女になったのだった。授業の受け方も友達との遊び方も部活への取り組み方もいつもと何も変わらなかったけれど、ツタ屋敷の少年のことは頑なに胸のうちにしまって誰にも知らせなかった。友達の沙耶香にさえ教えなかった。自分だけがあのツタの塊を知っていて、あの少年と話すことができる。あの少年の奇跡を見ることができる。そのことが少し不安であるのと同時に誇らしかった。
この先にはきっとあの少年との素敵な日々が待っている。ツタ屋敷はもう以前のように暗くなることはないだろう。あれが何なのか、これからどうなるのか歌子には全く想像がつかない。けど、世界に二つとない恋ができるかもしれない。その予感が少女を一秒ごとに美しくするのだ。
この後の少女とツタ少年のめくるめく流れる物語については読者諸君の想像に任せるとして、今はとりあえず筆を置くとしよう。
【End.】
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