日常という名のエレジー [1/6]
俺が当時妙子と二人で住んでいたアパートは線路脇の通りにあって、年中家の周辺に微かな機械油の匂いがしていた。玄関を開けると半分錆びた鉄柵の向こうに同じ木造アパートや古びたテナントが電車道を囲っていて、線路沿いに二十メートルくらい先から定期的に遮断機の音が聞こえてくるような……そんな場所。
「ねえ、あんた今度から名前『麻生伴也』になっちゃうんだけど、いい?」
二間しかないアパートで妙子が何気なくそう言ったのが俺が中学三年のときだ。妙子は十九歳年上の俺のお袋。化粧がけばくて脱色した髪がいつもぱさついている、三十三歳の若いんだか老けてるんだかわからない女だった。
「生活は多分何も変わらないけどさ。いろいろ手続きとか、いろんなとこで正式に母子家庭になるってわけ」
妙子が吸いきったショートピースを潰すのと共にテーブルの上に離婚届が広げられる。俺は何も驚かなかった。ただ、醒めた気持ちの中でとうとう来たかと思っただけ。「勝手にしろよ」とさらりと言ってやるつもりだったのに言えなかったのが自分でも意外ではあったけれど。
「親父は見つかったのかよ」
「うん。次会ったらやめにするよ」
あたしもちゃんとした家庭欲しかったのにな……。
子どもが憧れていた玩具を諦めるみたいな言い方で妙子は二箱目のショートピースを咥える。厚めの唇にのってるルージュの赤さとかマニキュアの濃さは一体誰のためにやっているのかとよく思う。その下品で挑発的な身なりでいつも外へ出ながら、彼女はとうとうあの男以外の人間を家へ連れてこなかった。考えてみたらもう十四年も経っているのに、妙子は俺の父親の他に男なんか作らない。
「だってあんたが傷つくでしょう」
何で男を作らないのかと訊いたらあっさりそんな声が返ってきた。息子が母親にする質問じゃないだろうと大笑いされて、俺は自分が何でそんな馬鹿な質問をしたんだろうと恥ずかしさの中で思いきり後悔したものだ。妙子の矛盾は俺が物心ついた時から今の今までずっと続いている。いでたちだけはけばけばしくて、でも他の所は質素で。年月が積もれば積もるほど俺にはそれが哀しくなってゆく。
蛍光灯がきちんとついているのに、部屋の中が外の夜より暗い。テレビの歌番組をぼんやり見ていた。テレビの中は何をしていても明るいから好きだ。
「伴也、あのさあ、ごめんね」
煙草の煙と一緒に聞き流した言葉。真面目に聞いていたら本気で落ち込んでしまうから、俺は答えを返さなかった。
中学二年の時、まだそいつの居場所を知らない妙子に内緒で俺は哲也に会いに行ったことがあった。哲也は妙子より四つ年上で俺によく似た男だ。痩せ狼から誇りを剥ぎ取ってドブ水をしこたま飲ませたような面をしているが、あの顔にだけは似たくなくて俺は何度も自分の顔を呪った。俺の生物学上の父親だ。哲也は。
成長すればするほど残酷にもあいつに似てくる自分の容姿には恐怖をおぼえる。少しずつ子どもらしさを捨て去っていく俺の顔は、あいつによく似た締まり方をしてくるんだ。
哲也はありふれた貧乏アパートに天気のいい昼間から篭って全身をどっぷり煙草の毒に漬からせていた。腐りかけたドアを開けた時のすえた臭いと、まとわりつくような部屋の色と、あの尖った冷たい目つきは今でも忘れない。
ただ敵を拒絶する古狼の目。
俺は、もしかしたら優しい父親を求めていたかもしれないのに、その目を見た瞬間に哲也のことを”敵と見なした”。
「誰だ、お前」
「あんたの息子だよ」
隙を見せたら迷わず噛み殺されそうな気がして、とても閉ざした心を開く気にはなれなかった。あいつと同じで俺の目はきっと尖っていた。その刺すような眼光が親子でなければ成しえないほどよく似ていて、哲也も俺もそれがたまらなく嫌だったんだろう。
哲也はいまいましそうに目を細めて、険悪な仕草で煙草の煙を俺の顔に吹きかけた。
「誰か探しにでも来たのか。ガキ」
――ああ。俺は父親を探しに来たんだよ。
でも見失った。
「お袋に金せびるのいい加減止めろ」
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