日常という名のエレジー [6/6]


「っザケんなッ!!」
 哲也は逆上して止まらなくなっていた。言葉の代わりに暴力でものを言う。妙子がはたき飛ばされ容赦なく俺の腹に飛んできた哲也の膝を俺が受け止める。俺は返しで哲也の身体を掴み顔面に頭突きをあびせた。哲也の呻きと鼻だか歯だかが潰れる音がした。頭を離すときに血と涎の雫がひらめいた。
「伴也は絶対にあんたみたいにはならない! 絶対に!! 絶対にさせないッ!!」
 妙子が転がったままハイヒールを脱いで起きざま哲也に投げつける。互いに頭を殴り内臓を狙って蹴りを入れる。もみくちゃになるたびにアスファルトの地面に俺たちの皮膚が擦れ、削り取られて血にまみれた肉を露出させる。
 家族三人で殺し合いだった。父が子の顔を踏み潰そうとし、母が父の首筋を噛みちぎろうとし、子が父の首を絞めようとしていた。俺にとって家族とは三匹の獣に他ならない。それぞれが生き延びるために家族を家族とも思わずに、牙を剥く。その点においてのみ平等であり、それだけが唯一の三人の共通項だった。
 ぎりぎり余力を残して俺と妙子が哲也の身体を捻じ伏せた後も、哲也は断固として離婚届に名前を書こうとはしなかった。裁判になれば慰謝料を払うことになる分だけ不利になるぞと脅しても聞き入れず、俺たちが手切れ金を置いて立ち去るまで一切の従順を拒否した。それは頭を冷やした後に妙子の情が再び傾くのを狙っていたのか、単純にこの男の最後の執着だったのか。



 もう冷たくない空っ風。強くなり始めた陽射しが肌を焼き、服に隠れた打ち身までも温める。帰り道の歩道の上で妙子は折れた黒いハイヒールを持ち、素足に破れたストッキングでぺたぺた歩きながらやっぱりショートピースを咥えていた。
「思ったよりあっけなかったわね。あんたのおかげだわ。ありがとね」
 顔にでっかい青あざをこしらえて、歩き方も微妙におかしいままだ。訊いてみると足を挫いたのだと言った。骨を折られなかっただけましだと笑っている。
「肩貸すぜ」
「いいわよォあんたボコボコだし。別に死にゃしないわよ」
 俺自身も唇が黒いタラコのように膨れ上がり、殴られて鼻血が出た鼻に紙をつめている。全身痣と擦り傷だらけになった。内臓を打たれたせいで吐き気がする。左肩が打撲のせいで腫れあがって上がらない。
 歩き歩き、途中で足を引きずる妙子を待ちながら歩道脇の雑草にぼんやり目を奪われた。冬の間に落ちた枯れ葉の下から真っ青な新芽が一気に天を衝く。植物はどうしてああも鮮やかに死と再生を繰り返せるのかと思う。
 ――いや、俺たちだけだ。俺たちの小さな死とか再生だけが圧倒的な日常の中で、見えにくい。
「伴也」
 物思いにふけっていた俺を妙子が呼びとめた。裸足でショートピースの火が潰せないから、代わりに踏み潰せだと。そんなこと自分でやりゃあいいのに。
「息子に甘えんのもほどほどにしろよ」
「いいじゃん別に。あんたが出てくまであと何年もないかもしれないしさ。そしたらあたしは一人で生きてくんだもの。今のうちに元取っとくわ」
 あっけらかんとした年増猫みたいな笑顔。
 淋しい台詞をどうして今俺に投げつけるのかと思う。妙子の台詞は、時々ものすごく淋しい。親としてとてもいい点はつけられないと思いつつ、俺は戻ってきて歩道の上に落ちた煙草の火を潰した。
「ごめんね」
「……別に」
 何度も同じことをやらされてはかなわないので、クールミントのガムを妙子に勧めた。
「食えば」
 妙子は俺から突き出された板ガムの先っぽに少し驚いたようだったが、すぐに一枚を取って包装を剥がし、口に入れた。
「いいわねこれ。スーッとして」
 暖かい通りの中で、遠くを歩いている通行人が俺たちのことを不思議そうに見ているのが見える。痣だらけでお水っぽい派手な衣装のままガムを噛んでいる母親と、その横で同じように痣だらけになりながら黙々とガムを噛んでいる息子。
「また夏が来るわね」



 妙子はそのまま裸足で歩き出す。
 背筋をしゃんと張って、男に媚びない女の歩き方で。体にじゃらじゃらとまとったゴールドのアクセサリーがみな春の終わりの陽光に輝いていてとても綺麗だった。
 俺はそんな彼女の姿を見ながら後を守るように歩く。情けない歩き方をしないように顔を上げて背筋を伸ばすと、真っ直ぐになった背中からまた一つ幼さが剥がれ落ちていくのを感じた。

【End.】

前[*]
戻る[1]
Copyright © 2009 桔梗鈴