蓬莱軒有象無象 [1/3]
蓬莱軒の身篭っていた女房が仕事中に店の中で倒れたのは、五月も末の小寒い日だった。前日より急に気温が下がった日などはラーメンがよく売れる。その日も亭主は開店時から鍋の湯気にまみれ、店内をきりきり舞いする女房の注文に答えながら中華料理の作りどおしだった。
女房は妊娠七ヶ月。小柄で蟻んこのようにきびきび働く女だった。そろそろアルバイトの一人も雇えば良かったのに、蓬莱軒の亭主は人件費をけちってまだこの女房を朝から晩まできりきり舞いさせていた。身体がでかく気もいいがけちで知れた亭主だ。女房が貧血を起こして倒れた時に真っ先に気づいたのもこの亭主だったが、女房が倒れるまで店の経営と料理のことしか考えてなかったのもこの亭主だった。
「おい、千恵子。──千恵子!」
店の常連たちが手を止めて床に倒れた女房の方を振り返り、亭主が料理を作りかけのまま放ったらかしてカウンターから飛び出してくる。亭主がいくら女房を抱き寄せ声を大にして呼びかけても、女房の意識は戻らなかった。
「おやじさん、救急車呼んだほうがいい。今呼んでやるから」
常連のサラリーマンが携帯電話で救急車を呼ぶ。厨房から麺を茹でっ放しの鍋が夥しい蒸気を放ち、餃子が火にかけられたまま焦げてゆく臭いがする。女房はやがて店の前にかけつけた救急車に一人で乗せられ、病院へと運ばれていった。
女房が倒れた時に店にいた常連の一人が翌日心配になって蓬莱軒に行くと、蓬莱軒は女房の代わりに臨時のアルバイトを入れて通常通り営業していた。亭主は味こそ美味な料理を出したが、開店時から閉店するまでとうとう一度も暗い顔を変えなかった。女房は連れていかれた先の病院で流産していた。
三日ほど同じ状態が続き、四日目の朝。
蓬莱軒は朝方入り口に亭主が張り紙を張ったきり、一日開店しなかった。
『まことに申し訳ありませんが手前共の都合により一時休業させて頂きます』
事件を知る常連たちは店主夫婦の身を案じてまめに店を訪れていたが、張り紙を見るとさすがに引き戸を開けて中に入ろうとはしなかった。一日が静かに過ぎ、何人もの常連たちが店の前を通っては黙ってその場を通り過ぎていった。
五日目はしのつく雨の日だった。
店の前を通り過ぎた小学生の少年が、閉ざされた引き戸の中から何かの陶器が割れるくぐもった音を聞いた。陶器の割れる音は一時間か二時間に一度、定期的に店の中から聞こえた。何人もの常連が破壊音を聞いたが、一時間以上その場に留まっていた人間もいなければ引き戸を開けた人間もいなかったので、誰も破壊が繰り返し起こっていることには気づかなかった。
六日目は土曜日。相変わらず雨だった。
昨日最初に陶器の割れる音を聞いた少年が、またしても朝から同じ音を聞き、店の前で立ち止まった。
店の引き戸の隙間から腐りかけた生ゴミの臭いが鼻をつく。二日間口を閉ざしたままの引き戸に、休業の張り紙が雨でふやけて剥がれかけていた。
蓬莱軒の中で今まさに何かが起こっていた。少年は蓬莱軒のラーメンを一度しか食べたことがなかったが、学校の行き帰りのたびに蓬莱軒から流れてくる料理の匂いにいつも腹をすかせられていた。中華料理屋から流れ出る異様なすえた臭いは霧雨とあいまって少年に凶事を予感させる。
立ち尽くしていると、少年の脇に常連の三十代ほどの男が立った。彼は蓬莱軒の女房が倒れた時にも救急車を呼び、そのあとも店のことを気にかけていた。
少年は勇気を出して知らない男に話しかけた。
「あの」
「……ん?」
「このラーメン屋さん、中から変な臭いがしてる」
少年に言われて常連の男もすぐに異常に気づいた。二人ともその場を立ち去ることもできず、かといってそれ以上何か言うこともできない。
もうしばらくすると違う常連の四十路男が店のほうに様子を見に来た。常連同士顔見知りだった三十路男が四十路男に異臭の話をすると、四十路男は眉をしかめて店の軒先を見た。
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