蓬莱軒有象無象 [2/3]
「ちょっと覗いてみたほうがいいんじゃないか」
「やっぱり見たほうがいいかねえ。これ、なんかが腐ってる臭いだよね」
「お皿が割れる音もしたんです。ぼく昨日もお皿が割れる音を聞いた」
「俺も昨日聞いたぞ。今日も音したのか」
三人の常連たちはそれぞれ顔を見合わせた。やがて三十路男がおそるおそる店の引き戸に手をかけ、引き戸を動かしてみる。引き戸には鍵がかかっていた。
中からヒステリックな女の声がした。
「あんた。鍵開けてよ。開けてよッ!」
蓬莱軒の女房の声だった。常連の男たちがいつも聞いていた元気な声とはかけ離れた割れた声。三人は息を詰めて蓬莱軒の引き戸を見守った。
しばらくして、鍵の開く音がした。引き戸は五センチほど開き、隙間からは蓬莱軒の亭主の巨体が視界を塞いで立ちはだかっていた。
異臭が一気に隙間から溢れ出した。三人は一様に鼻を塞ぎ、目にした亭主の姿に言葉を失った。亭主は全身に料理の残骸を浴びていた。頭から黄色い麺の束と具とスープを垂れ流し、身体の至るところに砕け散った餃子やら炒飯の米粒やら杏仁豆腐の欠片やらをくっつけ、衣服を料理の汁で隅々まで染みだらけにしていた。無精髭をたたえた顔は見えない奈落をみつめていた。
「すいません。今日は勘弁してください」
老人が喋ったかと思うほどしわがれた低い声を絞り出し、亭主は引き戸を閉めた。
店の前に一人、また一人と人の姿が増えていった。多くは同じ蓬莱軒でラーメンを食べただけの、互いに会話を交わしたこともなかった人々。やがてそこに地元の人間や近くの商店の人間も加わってゆく。彼らは閉められた引き戸を店主夫妻にばれないように少しずつ、ほんの少しずつ開けてゆき、異臭に耐えながら中の様子をうかがった。
店の中では痩せ衰えた蓬莱軒の女房が絶え間なく料理を食べていた。亭主の作った料理を食べては喉に指を突っ込み、ところ構わずに料理を店の中に吐き下し、亭主に向かって残飯を皿もろとも投げつけていた。女房が皿を投げるたびに店の中に陶器の割れる音が響いた。亭主はそれを咎めるでもなく、店の中を掃除するでもなく、されるがままになっていた。女房が食べたものを吐くと何度でも店の厨房に立つ。女房は亭主が料理を作る間、死んだようにして残飯の散らかった店のテーブルの上に突っ伏していた。
「ああ、えらいことになってる。どうしよう」
「もう少し。奥さんもおやじさんもわかっててやってるみたいだし、あんなことになっちまった後だしなあ。本当にヤバくなりそうになったら飛び込もう」
十人も二十人もの有象無象が扉の前でしどろもどろしながら店の中の二人を見守っていた。女房が皿を投げるたびに店の前がざわめき、ばらばらなリアクションで周囲の注目をひく一方だ。
蓬莱軒の亭主は自分が作った食い物を投げつけられ、残飯を浴びながら鉄の沈黙を守った。引き戸の隙間から見える座った亭主の背中。女房が料理を駄目にしてしまうと亭主はそのたびに腰を上げ、新しい料理を作って出す。そうして女房が黙って料理を食う間、不動の姿勢で女房の正面に座っていた。
外で見守っていた常連の男の一人は、二人の終わらぬやりとりを見ているうちに皺のいった目を潤ませた。唇を噛んで洟をすすりあげ涙をこぼすのをこらえている。それを見て他の涙もろいおばさんがピチピチに脂肪の詰まったスカートのポケットからハンカチを取り出す。小学生の少年がそれを見ながら店の中に視線を戻す。
店の中に散乱した無数の料理が冷め、腐って、異臭を放つ。荒廃した店内を女房の吐瀉物と投げつけられた皿がさらに荒らしてゆく。
次[#] 前[*]
戻る[1]
Copyright © 2009 桔梗鈴