蓬莱軒有象無象 [3/3]
理由に真新しいものは何もない。素通りすることもできた。めずらしくもないものに足を止めていられるほど今の世の中は暇ではなかった。子供を流してしまった女房の、亭主への仕返し。
扉の前の野次馬たちがそこに立っているのはたまたまにすぎない。社会から見てめずらしくもない悩みにどれだけの重圧がのしかかっているか、それは本人たちにしかわからない。平均的な辛酸を数年、数十年と年月をかけて舐めてきた者たちにしかわからないこと。
「私、あんたのつくったものたべられない」
何十回目かの破壊のあとに女房は言った。お腹の中の子を失った絶望が全身を通い、痩せた体がますます彼女の細った神経を昂ぶらせた。
「あんたのつくったもの、おいしくない。食べられたもんじゃない」
「奥さん、そりゃあないよ」
店の外から常連の一人が引き戸を開けて中に叫んでいた。亭主が入り口の方を振り向き、女房が亭主に向けていた視線をはずす。引き戸を開けた男は他の野次馬たちの目を集めながら腹の底の声を押し出した。
「俺さっきからおやじさんの料理作るの見てたけど、みんなすごい美味そうだったよ。全部すっごいすっごい愛こもってたよ。……俺、あんなに愛がこもった料理、見たことねえよ!」
ちょっと遅れて、他の常連たちも同意の声をあげる。声を上げないものたちもうなずきながら目で訴えかける。店の入り口は三十路男や四十路男や小学生やおばさん、それ以外にも様々な人種で埋め尽くされていた。
「奥さん。つらいだろうけど、元気出して」
「そうだよ。おやじさんも奥さん励まそうとしてるんだよ」
「俺たちも、ラーメン食いに来ることしかできないけど、でも食べに来るよ!」
「ぼくもお父さんとお母さんとみんな連れて食べに来ます」
限られた範囲の中で必死に思いを伝えようとする人々。返ってきたのは素直な感謝ではなかった。蓬莱軒の女房の顔は歯の裏にまで上ってきている苦言を必死で噛み締めているように見えた。
亭主が立ち上がって入り口の方へ歩み寄り、残飯にまみれた姿で頭を下げた。
「いいんです。俺が悪いんです。……千恵子は、女房は俺が子供より店を優先させたことが許せないんです。きっと、俺の料理が憎いんです。どうか女房をそっとしといてやってください」
子供流したの、今回が初めてじゃないんです……消えそうな、だがはっきりと通る低い声で亭主が告げる。有象無象たちは静まりかえった。侘しい空気の中で濡れた女房の目が吊り上がり、血走っていた。
亭主が働かせ過ぎて、流したのだ。人々は空気の流れで的確に亭主を裁く。亭主は一途な思いやりの中に混ざった一滴の軽蔑の朱を黙って受け止めた。それでもなお亭主を許す常連たちの苦味を受け止めた。肩を落として女房の前に戻っても一度垂らされた軽蔑の朱は決して取れず、店の入り口から亭主の背中を刺し続けた。
女房は黙りこくる亭主の前でぼろぼろと泣く。店中に散らかった残飯の冷えて腐ってゆく臭いの中で、声もなく口を動かす。亭主は膝に置いた手を握りしめながらそれを聞いている。店の前の常連たちも、常連でない野次馬たちも、全身全霊で女房の声にならぬ声を聞こうとしていた。
「……あやまって。あやまってください。他のことは、あんたのことだから、きっとどうしようもないから……だから一度だけでいい。
あやまって。ちゃんと、今ここで」
女房はそれ以上は何も言わず、椅子の上で唇を噛み締めて震えていた。沈黙のあとに亭主は椅子を立ち、ゆっくりと、深々と土下座して残飯にまみれた床に頭をこすりつける。
「すいませんでした」
亭主は土下座姿をいつまでも続けた。女房は亭主の前でいよいよ声をあげてしゃくりあげ始め、それを見た店の前の者たちは声もなく泣いた。おそらくはこれからも夫婦であり続ける二人のために、みなして泣きに泣いた。
有象無象たちは散っていった。小学生も、三十路男も、四十路男も、おばさんも、他にいた色々なとるにたらぬ連中も、それぞれにやさしい気持ちを抱えながら。彼らはいつかもう一度、蓬莱軒の中華料理を食べられる日が来ることを心の底から願った。
七日目が過ぎて八日目に、蓬莱軒は元の姿を取り戻していた。身体がでかく気もいい亭主がまた気のいい笑顔を浮かべながら厨房に立ち、小柄で蟻んこのようにきびきびと働く女房が臨時のアルバイトと一緒に笑顔で客に料理を出していた。
有象無象たちはもう事件のことをいわなかった。彼らは店に来ては陽気に飯をくい、入れ替わりたちかわり亭主や女房と冗談を交わして笑いあっていた。
【End.】
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