轍《わだち》 [1/8]
もしどうしても苦しくなったら手首を切る前に何か鍋で茹でなさいと厚子さんに言われて、私はパスタ用の湯を沸かしていた。沸騰する透明な液体とステンレスの鍋の上に手をかざす。傍からはわからないのにそこはとても熱くて、熱気で手全体が痛みを持った。痛みが二秒三秒と続くうちに私ははっと覚醒して、目覚めきった気持ちで手を引いた。切らなくてもそれで足りた。もう少し手をかざし続けていれば間違いなく手が焼け爛れ命に障るという感覚が、苛立ちと不安に侵されていた私の精神を強く牽引したのだ。
窓から昼の光がダイニングキッチンいっぱいに差し込んでいた。
こんなことで落ち着いてしまうなんて、歳だと感じた。周囲は笑うかもしれないが私の青年期は終わりかけているのかもしれない。火傷とも呼べない火傷で私は満足する。そのまま煮えたぎった湯にパスタを放り込んで、アルデンテでざるにあげて、オリーブオイルとたらこソースで和えて食べる。
私の両手首には最近までやっていたリストカットの痕が幾条も残っている。シマウマのように切るたちだった。今はもうやっていないが元々肌が白いし、痕は一生残るだろう。自業自得。でも不快には思わない。責めるようだと多分永久に切り続けているから、私は加齢と共に羞恥心を捨てた。今日は今日で午後から厚子さんの経営している画廊へ行って受付の仕事をする予定だった。あの職場は私のような女性にとって理解がありすぎると言わざるをえない。夏でもクーラーがやや寒いくらいにきいていて、従業員が年中長袖でいることも認められている。午前と昼の担当はショコラちゃん。またカウンターのところでうとうとしているのかしら。
──ミストさん。低血圧なのはわかりますけどぉ。お願いだから遅刻しないでくださいよぉ。ショコラ時々寝てることあるから、ミストさんが起こしてくれないとマジ次の仕事に遅刻しちゃうんですよぉ。イチレンタクショーなんですから。ねっ。
ショコラちゃんの口調は甘ったるい。でも実際性格は私よりしっかりしていると思う。もちろん私はミストなどという名前ではない。ミストはあだ名だ。私の本当の名前は霞という。
私が、まだあの画廊の客に過ぎなかったころ、私は精神的に不安定で毎日のように手首の肉を切り刻んでいた。カッティングには安全カミソリを使う。切っている瞬間には世の中から意味が消えている。──牽引。一瞬でも生死に触れているスリルと充実感。最初は不安が一掃され束の間満足したものだったが、段々死なない程度がバレてくると浅く切る程度では満足できなくなった。切らないときでも塞がってる傷口が痒かったりして、痛みと共に傷口をこじ開けるのが気持ちいい。
「霞、手首はやめなさい」
「いい加減にして」
とにかく母親の声が不愉快だった。血管が切れて出血がひどくなると医者に行って縫ってもらい、精神安定剤の処方を変えてもらう。携帯で写真を撮ってインターネットのサイトにアップすることも忘れない。薬の処方をミリグラム単位で書き留めることも。中学時代に親からパソコンを買い与えられた私はリストカット系のサイトに入り浸り、学校よりも多くの友達をネットの中で作った。
初めて行った心療内科で自殺衝動があるねといわれた時、ちょっと、すごくと言うとカッコ悪いからちょっとカッコいい気がして、世界が開けたように見えた。平凡であることを認められなかった自意識。家族は甘えるなとかお前はずるいとか私をことあるごとに罵倒したが、当時の私に言わせれば手首を切った人間に向かってそんなことを言える家族のほうが異常だった。家族の情なんて三回もリストカットがバレればどんな家でも簡単に化けの皮が剥がれる。私はムカつくと切った。それまでも家族の存在に傷ついていたのに切らなかったことのほうがおかしかったんだ……などと自分を可愛がるのは大抵パソコンの前で、自分の部屋や洗面所で切った直後は蛍光灯の下の自分の体が真っ黒で自分のおかしさが際立って自己嫌悪に陥った。ネットの友達は「死なないで。あなたが大切だよ」と正確なレベルで私の欲しい言葉をくれた。
すっかりリストカッターであり、精神病患者として自他共に定義されていた。私。小・中学校の頃カス美と呼ばれていじめられた。私の名前に美しいなどという漢字は入っていなかったのに。生ゴミみたいなイメージを美という漢字に抱いて、私は今でもそれを引きずっている。
厚子さんの経営する画廊「ギャラリートラック」は銀座駅から十分ほど歩いた棗ビルの四階にあった。銀座は高級ブランドだけの町ではない。少し路地に入れば小さな画廊が多いことでも知られており、大通りから外へ目を向けるとハイソな通行人たちに混じって貧乏そうな学生もうろついている。当時大学を休学していた私は実家に籠るでもなく外をふらつき、画廊巡りをしているうちにギャラリートラックへ入り浸るようになった。
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