轍《わだち》 [8/8]


 通報したのは厚子さんの部屋の階下に住んでいる住人だった。夕食の支度をしているとダイニングキッチンの床に何かがぽたりと落ちてきて、見上げたら白い天井に大きな赤い染みができていたという。驚いて管理人を呼び出し、管理人と二人ですぐ上の部屋に踏み込むと真っ暗なダイニングの中央に誰かが身体を折って崩れ落ちていた。びっくりして駆け寄ったとき足元からぴちゃりと音がして、見下ろすとフローリングの床の上に吐き気を誘う臭いの液体が、黒い池を作っていた。電気をつけると黒かったものは一気に鮮血の赤へと色を変えた。厚子さんは包丁で腹を横一文字に掻っ捌き、切れた内臓をはみ出させたままダイニングの床に崩れ落ちて死んでいた。居間には大きなテディベアのぬいぐるみとブランドものの財布が綺麗なまま放置され、花束がテーブルに置かれたままでしおれていた。
 葬式が始まっても私はまだ泣けないでいる。事態を聞きつけ、信じられない気持ちで部屋に踏み込んで動かない厚子さんを見てから。夢中で触れた厚子さんの体がもはやぬくもりを持たず、氷とも呼べないような気持ち悪い冷たさに明け渡されたと知ってから。

 理由はわからない。

 あいまいなまま生きてゆけと、厚子さんは諭す。手首の腕時計を借りて。厚子さんの死体に触ったときに血がついたはずなのに、もうきれいに脂まではじいて消えてしまった。私はもう死なない。時計をもらう前なら、なぜ置いていったのと泣き喚いて今度こそ後を追ったかもしれない。厚子さんがこれ以上ないほど生死を感じようとしてうっかり引きずり込まれ、死んでしまったことに必死に意味を作ろうとしたはずだ。
 だがこの死には、もう意味がない気がした。
 一滴も涙をこぼさない私の横でショコラちゃんは喪服姿のまま始終泣きじゃくっていた。私以上に厚子さんがなぜ死んだのかわからないショコラちゃん。厚子さんの美学を理解できないショコラちゃん。かわいそうだった。
 夜になっていた。葬式客たちが参列を終えて散会していく中で、私は目を真っ赤に腫らしているショコラちゃんにハンカチを貸してあげた。
「これ使って」
 自分自身、どうしてこんなに心が静かなのか不思議なくらいだった。ショコラちゃんはハンカチを受け取ると目元を何度も拭う。
「オーナー、なんで、なんでっ。なんで? なんであんな死に方……ショコラ何にも気づいてあげられなかった……なんで……」
 誕生日のときの厚子さんの顔。思い出す。幸せに生きられるようになって、擦り切れて、失われてしまった私の感性。きっと理由がわからないみんなは、厚子さんの死に様に意味を見出そうとする。あんな死に方をしたのだから。そうして勝手に答えを出して、納得して、心の平静を取り戻して、生きていこうと努力するのだ。
「なんでお腹を切るだなんて怖いことしたんだろう。切腹みたいじゃないですかぁ」
「陳腐よ」
「え?」
 私はショコラちゃんの頭を抱き寄せ、目を閉じた。線香の匂い。近づいてくる雨雲の匂い。そうして、いつまでも目頭を押さえながら闇の中を透かし見ていた。
 なんて陳腐な死に方をしたんだろう、あの人。そう言い切ってやることが一番厚子さんのためになるような気がした。どんなまともな理由もない。あの人は陳腐に、無意味に、一番重苦しい形で死んだ。私と厚子さんとは遊離してしまった。気づけなかったことが心の底から悔しかった。
「意味なんかなかったのに」
 死ぬことに意味なんかなかったのに。切ることに、この身を流れる命を感じることに意味はあっても。
 たがが外れる。私は感情を制御できず、ショコラちゃんを抱きしめた腕を放すとその場にいられなくなって早足に外へ歩き出した。ショコラちゃんがわけがわからないまま追いかけてくる。どういうことですかという呼び声が夜空に響く。
「ミストさん。ミストさんは生きてくれるんですよね? もう大丈夫ですよね? もう完璧に、治ったんですよね!? もうショコラを置いてかないんですよね? もう手首切らないんですよね? ミストさんは治ったんですよね!?」
 思わずかっとなって足を止めた。私は振り向くと、追いついてきたショコラちゃんに何の前置きもせず、彼女の頬を思いきり平手打ちした。手が真っ赤になるほど強い力で叩いたせいで大きな音が鳴り、ショコラちゃんが呆然とする。やがてその両目に雫が溢れ、声が漏れてショコラちゃんが盛大に泣き出す。
「今度また言ったらひっぱたくからね! 二元論は、もううんざり」
 怒鳴った途端、涙が溢れて声が詰まった。
 私は生きる。厚子さんの後も追わず。ショコラちゃんを伴ったまま歩き続け、泣き続けて、いつしか自分の涙が腕時計を濡らしているのに気づいた。白金のベルトからは磨きぬかれた雫たちが流れ落ちる。後から後からとめどなく光り、手首の傷痕を濯いでゆくのだ。凍みるような新しい痛みと共に。
 死んではいけないと思った。

【End.】

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