轍《わだち》 [7/8]


 誕生日パーティーが終わり、休日をはさんで次の営業日に画廊へ行くと受付ではショコラちゃんがまた花のように座ってスキのある微笑みを振り撒いていた。声をかけて眠っていないのを褒めると、ショコラちゃんは厚子さんから連絡をもらったといって内容を私に伝えてくれた。
「何かぁ、急にお得意どころの画家さんから電話が入ったらしくてぇ。買い付けに行っちゃったらしいんですよぉ。今日はここに寄れないからミストさんにあとは任せるって」
「そう」
 従業員が少ないこともあり、私も画廊の閉館処理をするのには慣れている。伝言を了解して私が受付を代わると、ショコラちゃんは帰りがけに私の顔を覗きこんでまたとりとめもない言葉を漏らした。
「ミストさん、最近彼氏さんでもできたんですか?」
 ありふれた話題のはずなのに突拍子もなく感じた。つい驚き顔で否定し、どうしてと聞き返すと、ショコラちゃんはあの甘ったるい口調でつらつらといくつかのどうでもいい理由を並べた。メイクが変わっただの料理に詳しくなっただの。
「それに、ほらその時計ですよぉ。あそこのブランドのですよね? いいなあ。彼氏さんのプレゼントだったらショコラの彼氏よりずっとお金持ちなんだなぁと思って」
「ああ、これは……」
 厚子さんからもらった、とは言えなかった。ショコラちゃんが同額程度のものをもらっていなければ不平等になるから。こちらを見る目が、妬ましげに見えた。
「……これは、自分で買ったの。高くついたけどご褒美」
「あ! そうなんですか?」
 ショコラちゃんの反応はわかりやすかった。綺麗でしょ、と見せびらかすと一緒になって綺麗と誉めそやしてくれた。少し寂しかったけど構わない。ショコラちゃんも彼氏から買ってもらえるといいねと付け足すと、彼女は残念そうに「いつか」と微笑んで猫みたいな仕草をした。
 厚子さんは翌日の朝も来なかった。今度はショコラちゃんへの連絡もない。私はショコラちゃんと代わる代わる厚子さんの携帯へ電話を入れたが、返ってくるのはいつまでも留守番サービスのテープ音ばかりでメールが来る様子もなかった。
「何かあったんですかねぇ」
 ショコラちゃんが首をかしげ、私は本気で「どうしたんだろうね」と小市民的な考えをめぐらせていた。思考のねじれを拒絶する手首の硬質な時計。自分なりに確立し、まっすぐに生きろという、厚子さんの澱みない声が白金とダイヤの中に固められている。
「個展を中断させるわけにはいかないし、帰りに家のほうに行ってみるわ。ショコラちゃんも何か厚子さんから連絡入ったら教えて」
「ショコラが行きましょうか? 住所がわかるなら大丈夫ですよぉ」
「ううん、いいの。前にも行ったことがあるから」
 私はショコラちゃんと別れた後閉館まで画廊に居座り、六時半になって画廊を閉めるとその足で厚子さんの家へ向かった。仕事の手伝いや飲み会のあとの付き添いで何度か訪れた家。銀座から地下鉄を乗り継ぎ、県境に近いある駅で降りて歩く。
 オートロックつきマンションの四階に厚子さんは一人で暮らしていた。下のエントランスでインターホンを押すが返事はない。管理人も不在だった。ずぼらな管理体制なのかたまたま来た時間が悪かったのかはっきりせず、私は管理人室のインターホンを押しながらエントランスで管理人が戻ってくるのを待っていた。
 手首の時計の文字盤が八時を差して、縁取りをきらきらと輝かせる。エントランスに置かれたベンジャミンの鉢を眺めながら私が壁際に肘をつくと、そのうちサイレンの音が聞こえてきてマンション前にパトカーが停まった。私はパトカーから降りてきた警官がまっすぐにマンションの中へと入ってきて、降りてきた管理人にすぐさま誘われてエレベーターの中に入ってゆくのを見ていた。

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