風を追う男
Chapter1 [1/2]


 ここでは全ての人間が大気の代わりにむせ返るほどの狂気を吸っている……。



 ある兵士は草の中に身を伏せて、どうして自分が戦場になぞいるのだろうと思った。半年前までは庭師だったのにラジオで戦争が始まって、何か得体の知れない力が働いて彼のオーバーオールを軍服にした。彼はレイモンドというのだけど、体はひょろひょろで顔にはそばかすがいっぱいでとても戦争とは縁のなさそうな男だった。
 さっきだって友達のボブを前にして故郷のツツジの花のことを語っていたのに。今はマシンガンの雄叫びしか聴こえない。風の囁きも子どもたちの笑い声も、わからなくなってしまった。
 この戦場ではいきなりボブの頭が吹っ飛んで倒れ、そのまま二度と動かないのがあたりまえなのだ。そんな世界だからある時レイモンドの胸に穴が開いても振り返る者はいなかった。

 誰もが頭を狂気に染めている。倒れた彼の周りを無数の足が駆け抜けていった。
 ああ、故郷のツツジ。あまりにも鮮やかなマゼンタの花。やさしい街の人々。太った母さんは悲しむのかなあ……。

「おい、言い残すことはあるか?」
 レイモンドはぼうっとした頭で目を開けると自分の上身が起こされていることに気がついた。
「血の味がする」
「そうだ。お前さんはもう死ぬ」
 自分の体を起こしている腕は逞しかった。聞こえてくる声は山男のようにしゃがれていて、しかもかなり異国の訛りがあった。
「故郷の母さんに僕が死んだって伝えてくれ。……そう……『ごめんよ』ってさ」
 どことも知らぬ草むらの中で。何だかとてもすまないことをしているような気がする。こんなに明るく冷たい陽射しがあったなんて。
「必ず伝える」
 自分のネームプレートが剥ぎ取られた。死ねば名前まで持っていかれるのだと思った。
 その時だ。そいつが来たのは。
「ダイスケ!」
 ”そいつ”は草むらを掻き分けて走ってきた。
「こっちだ」
 自分を抱き起こしている男が答える。どうやら日系の男らしかった。彼が草むらの向こうに目をやると……

 現れた”そいつ”は綺麗な目をしていた。磨き上げられた黒曜石のような目を大きく開いて、ハスキーな声で少年さながらに叫ぶ。
「フィルムがやられた。持ってないか」
 黄色い肌をした異国の青年。首からかかった一眼レフのカメラはその小柄な体には大きく思われた。
「待ってろ。少しやる」
 ”ダイスケ”と呼ばれた男がポケットをまさぐる間、青年は倒れた兵士に目を留め、近づいてきてそっと兵士の手をとる。
「……ああ、意味がない」
 兵士はもう狂気を吸うのに疲れていた。じっとりした風が吹き、耳鳴りだけがつんざくほど聴こえた。

「……意味がなかった。何の意味もなかった。僕の人生も、死も、カスより軽い。
 ……誰も否定できないだろう。……否定できやしないんだ……」

 青年は彼の写真を一枚撮って、もう一度華奢な手を兵士の肩に置いた。
「あんたの人生は無駄じゃなかったよ。俺が今、ちゃんとカメラに収めた」
 ”そいつ”の声はなぜか哀しげだった。人間が悲しむこと自体がもはや異常に感じられて、その兵士は言いようのない喪失感をおぼえた。
 爆音がするなり”そいつ”はフィルムを手に駆け出した。ちいさな疾風のようだった。
「おい、あの青年を呼び戻せ」
 ”ダイスケ”と呼ばれた男が兵士を見る。
「ここは、あいつのいる所じゃない」

 手を伸ばせば、体が動いて彼はその風をどこまでも追いかけていけるはずだった。
「……走れ……」
 彼は自分も風になってその若者を力の限り追いかけていった。そうして、やがてまばゆい光につつまれ、彼は人間の枷から完全に自由になった。

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