風を追う男
Chapter1 [2/2]


 楢橋大介――「ダイスケ・ナラハシ」がその青年と出会ったのは彼の母国においてではなく、そこより遥か彼方の大陸においてであった。彼の写真を見た者は中東だと指摘するが詳しくは定かでない。既に十数年近く戦争の続いている不毛の地だった。荒廃した町を歩く彼の首にはいつも一眼レフの傷んだカメラがあった。
 何のために戦場へ赴くのか、それは自分でもわからない。ただ母国に彼の居場所はなかった。そんな漠然とした理由さえ耐え難かったのだろうと彼は思った。
 そんな彼を惹きつけ、魅了した「風」。多くの戦場カメラマンたちが彼に「疾風」というあだ名を付けた。その少年のような風貌で誰よりも速く走るからだった。

 大介は彼に魅せられた日のことを今でもまざまざと思い出すことができる。出会った時もやはり戦場の真っ只中であった。
 大介はいつものように自分のいた部隊からはぐれ無我夢中で戦場を駆けては写真を撮っていた。戦場の狂気をめいっぱいに吸う時だけ彼は何者かに生かされていた。彼は機械より狂いのないその腕で極限状態の人間たちを撮った。人間の死も撮った。ただ破壊のためだけに生まれた道具や踏み荒らされて血を流す自然を撮ることもあった。あとで現像すると、うんざりするほどに狂気しか映っていないのがほとんどだった。

 「風」が止まっているのを見たのはその時が初めてだった。その青年は戦場のどこかでぽつんと膝をついて、自分の居場所を忘れたかのように周りの虚しい世界をじっと見ていたのだった。彼の前には下半身を吹き飛ばされた死体があって、どちらも既に泥まみれだった。

「こいつのプレートがない」
 大介は、その言葉を自分に向けられて初めて自分が立ち止まっていたことを知った。
「あんた、こいつのプレート見なかったか。さっきまで首にかかってたんだ。だけど、こいつさっきやられちゃって、死んだ。
 なあ、こいつの名前知らないか」
 青年は泣きだしそうになっていた。大きな眼をかっと見開いて、胸にかかっているカメラを使うのも忘れて目の前で起きていることの酷さに打ちひしがれているようだった。
「戦場は初めてか」
「こいつの名前を知らないかって訊いてるんだ!」
 若く、明らかに怒りを含んだ声だった。大介が驚いたのはその声が悲しみをも含んでいたからだった。
「……俺は、こいつの遺言を聞いたんだ。こいつ、故郷に奥さんと小さい子どもがいるって。だから『すまない』って。伝えてくれって言われたんだよ。伝えなきゃいけないんだよ。
 なあ、こいつ誰なんだ。
 知らないんだよ。教えてくれよ……」

 戦場では会ったことのない人種だった。
 大介は「そんな”名無し”なんてどうでもいいだろう」と言いかけて、それが人間の本来在るべき姿なのだとようやく思い出した。
 ……自分の中に二度と埋められない欠落部分がある。
 それを持っているこの青年に嫉妬まで感じた。正直言ってうらやましかった。
「……何のためにカメラを持ってるんだ。そいつで撮ってやればいいだろう」
 青年は思い出したように自分のカメラに眼をやった。もしかしたら自分が何者であるかも忘れていたかもしれない。
「お前にできることはそれだけだよ」
 大介は知っていた。自分たちには”それしかできない”ということを。そして思う。この風も、いつか自分のように無味乾燥な代物に変わってしまうのだろうか……と。
 青年は気を取り直すように深呼吸すると、こまやかな手つきでその兵士を撮った。持っている目がまるで自分と違っていた。青年は、ファインダーを通して何か尊いものを感じているように見えた。全てが遠く銃声の行き交う中で静かにてきぱきと行われていった。
「お前、名前は」
「リョウ」
 彼は一時もファインダーから目をそらさずに言った。
「俺は大介だ。お前と同じカメラマンだよ」
 あいづちも打たずに写真を撮りつづける姿。不快な気はしない。むしろカメラマンとして当然だと思う。こいつの撮る写真を一度見てみたいと思った。
 もう一声掛ける前に爆音がした。全身を凪ぎつける爆風。かなり近い。そして爆風にさえぎられながら飛んでくる悲鳴。
 ……”撮るべきものがある”。
 大介は反射的に爆心地へ走り出した。瞬時に青年のことを忘れて。ところが、途中で自分を抜いた影があった。小柄な体をさらに前に傾けるリョウの後姿はみるみるうちに大介の第六感を吸い寄せていった。

 まったく、素晴らしいほど速かった。
 狂気を吸った人間には決して出すことのできない速さだった。本気であれを写真に撮りたい。あれには撮るだけの価値がある。
 大介はリョウに追いつく気で 死ぬ気で走った。絶対に追いつけないと知れば知るほどその期待と喜びは大きく膨れ上がっていった。

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