風を追う男
Chapter4 [1/3]


 戦争はなおも続く。
「ダイスケ、それ以上は危険だ!」
 自分が他人の静止を振り切ってまで前へ進むのはなぜだろう。ある日大介はそんなことを思った。狂気が自分を突き動かすのだ。狂気が「前へ行け」と言ったら体がもう前へ進んでいる。汗と血と泥に濡れる肌。随分前から恐怖をどこかへ置き忘れていた。自分が生きている人間だということさえ忘れて、狂気に跳ね返る身体に全てを預けた。
 今日も人が砕けて飛び散っていく。爆発に巻き込まれたり地雷を踏むと、人は砕ける。砕けて舞い上がった体を見上げると血が雨のように降ってくる。全身の肌の濡れる感覚。僅かに癒える渇いた喉。隕石のように人だった腕や臓器が地面に叩きつけられ、ふと立ち止まれば、自らの両腕に全身から何かが真っ赤にぬめってしたたっている。
”ああ。これは人間の血か”
 もはや麻痺している思考回路には解らないのだ。自分を濡らす血が”誰かのものだった”ということが。こんなにたくさん自分を濡らしているから解らなかった。きっと血や肉や他のものがいっぱい虚空へ弾け出て、そのまま降ってきたんだ。誰がこんなことするんだろうなぁ。この血にも数秒前まで名前があったろうに。
 数秒前まで誰かの体の中で生きて脈打っていた血だ。生きたままの人間を木っ端微塵に吹き飛ばすなんて……。

 中途半端に吹き飛ばされた連中が叫びを上げている。無くした腕や無くした脚はそこらじゅうに散らばっているけれど、大介にはどれが誰のものか一つとしてわからなかった。こんな時、あいつならどうしていたっけ。手近な奴を抱きとめて死に目を看取っていたんだったか?
 同じようにすれば風の心が見えるかもしれないと、何度も心のどこかで願っていた。
「エリィ……エリィ! 死んじゃうよ。僕死んじゃうよ。ごめんね。脚がなくなっちゃった。ちぎれちゃったよう……」
 冷たくなってゆく兵士の体。自分の体が温かいという実感。五感の全てが過剰にものを感じとり、鈍った神経にも自分が生きていることを教えてくれる。
「しっかりしろ。何か言い残すことはあるか」
 埃と硝煙でしゃがれた自分の声。遺言を聞いてやるのも狂気の命令だろうか。それとも只の通過儀礼なのだろうか。剥ぎ取ったネームプレートには、泥にまみれて「アッシュ」という名前が刻まれていた。
「お前、アッシュって言うのか。おい」
「そう。……エリィにぼくが死んだって伝えて」
 消えていく命だけが狂気の呪縛から逃れられる。血の中で大介はそれを美しいと思う。
「必ず伝える」
 兵士は一瞬安堵したかと思うと咳き込んで、血を吐いた。「気持ち悪い。血の味がするよ」……どこかの訛りがあった。
「ねえ。ぼくは死ぬのかな」
「……死ぬよ」

 風が吹いている。生ぬるい異国の地の風。消えていく命のための温かいベッド。
「そうか」
 兵士は目を閉じる前に涙をこぼした。風が彼の魂をさらっていき、大介の腕にはいつも抜け殻が残った。

「リョウ」
 お前なら泣いてやれるか。この肉の塊に。風が吹いても自分の心だけは永久に温かくならない。自分の眼からは涙などこぼれない。
 それは当たり前の日常であったし、まして狂気に濁った自分の眼では泣くほどの感動など得ることもできなかった。只の抜け殻など見て、どうやって泣けというのか。



 大介は沈んだ気持ちになると日に何度でも病院へ行った。リョウはまだ癒えていない傷を楯にこの国に残っていた。
 看護婦が自分を制止する。何度聞いても異国の言葉で。
「外へ出てください。患者さんがいるんです。汚いから洗ってきてください!」
 特別に気分が沈んでいた。他人の血を頭のてっぺんから浴び、それが自分の肌の上で泥と混ざっていた。気分が沈むのはよくあることなのに。死の臭いを削いだ自分など自分ではない。
「お願いですから外へ出てください!」
 異国の言葉が解らないふりをして強引に病室に入った。リョウはドアを開ける前から自分の来訪に気づいていたのだろう。深く研ぎ澄まされた目で、ベッドの上からじっとこちらを見つめている。
「……居ていいかな。ここに」
 きっと仔犬みたいな目でもしていたんだろう。「どうぞ」というそっけない返事に怒りはなかった。
「なかなか死なないね。あんたも」
「汚いと死の風に見放される」

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