風を追う男
Chapter5 [1/3]
大介が帰った後で自分の嗅覚に関心を寄せると、リョウは驚くほど自分が「死」の側にいることに気づく。
「俺はな、本当のところお前さんが男か女かなんてどうでもいいんだ。ただお前が綺麗だから撮りたかった。それだけ」
大介がドアを開ける前には必ず死臭が鼻を突いた。病院では忘れてしまいがちな死の臭いを、あの男は年中全身から発散している。近くに寄ってみて始めて後からつけられたきつい香水の存在に気づく。
「あんたね、その香水ごまかしになってないからやめたら」
いつかそう言った時、大介は珍しく驚き顔になっていた。
「やっぱりお前にはバレるか?」
「バレるも何も、ドアを開ける前から地の臭いが臭ってる。寄ってくると混ざって余計気持ち悪い」
大介が口説きに来ている間もその臭いがえらく不快だった。看護婦や他の患者が臭いのことを言わないのが不思議でたまらず、問いただして「わからない」と言われた時には開いた口が塞がらなかったものだ。
「そんな、何でわからないの? 臭くてしょうがないじゃん」
自分の感覚だけが鋭敏なのだと認めたくなかった。狂気のおかげでみんな感覚が鈍っている。死臭なんて嗅ぎ分けたら生きづらいのは解るけれど、あんなにきつい臭いがわからないなんて……。
「さすが死神だな。死臭がわかるんだ!」
廊下で他の負傷兵からそんな風に呼ばれた。松葉杖で殴る代わりにきつい一瞥をくれてやると、集団でもってからかうように笑われた。
「やめてくれよお。かわいい死神さんでも睨まれたら死んじまう」
”かわいい”死神。男たちはたしかにそう言った。
それまで何とも思っていなかった視線が、実は自分を娼婦のようにねめ回していたとわかった時の嘔吐感。人に見られるのが恐ろしくなった。
強がりながら、リョウは病室から外へ出なくなった。もう軍には戻れない。故国にも帰れない。いっとき誰も信じられず、絶望の毛布にくるまった。
「……居ていいかな。ここに」
すがるような大介の力ない笑顔を見た時、リョウは不安定な胸のうちで大介をひどく哀れだと思った。血まみれの大男を見て怯えない自分も自分だ。それでも「帰れ」と言ってはいけないような気がして、ベッド脇のスツールに座ることを許した。
大介は毎日毎日そのスツールに座りに来た。自分を馬鹿みたいに見つめるまなざしは案外澄んでおり、そのまま放っておくといつまでも臆せずに自分を見ているので自分の方が先に視線を外すことになるのだった。
「あのさあ、放っといてくれないかな。息苦しい」
「……ああ、そうか? 気にしないでくれ」
大介は人間的にどこか欠け落ちている部分があった。そういう解釈で本格的に放っておくようになると大介の存在は陽だまりのように暖かく、居心地のよいものになった。振り向けば馬鹿みたいにそこにいる。「馬鹿じゃないの」と言えば、「そうだなあ」と笑う。
よりかかりたかった。
「お前はもうくにに帰れ。お前が死ぬのは見たくない」
ただその一言だけが、かなしく、よりかかることの不可能さをはっきりと教えてくれた。
もう行かなければいけない。陽だまりの下で羽は十分に休めた。あとは自分の力で飛んでいく。
「どうせ止めても行っちまうんだろう、お前は。そんなに行きたいなら行けばいいさ」
大介が側にいるのでは居心地が良すぎる。リョウは彼の望むままに、自分勝手に彼を捨てていくことにした。最後に自分を認めてくれたのは本当に嬉しかったけれど、自分は男なのだから、当たり前だけど「ありがとう」と言うよりないのだ……。
脱走の日の朝は珍しく街が静かだった。どうやら戦場が束の間の休戦状態に入ったらしく、狂気が地に沈んで上澄み液のような空気が漂う。大介はそんな街の人ごみをかきわけてスタジオへ入り、黙々と現像作業やらカメラの掃除やらを進めていた。
リョウが病院で撮った写真を、暗室でひとつひとつ現像液につけて最後にカーテンを開ける。それは子どもたちの笑顔や、今まさに飛ぼうとしているカナブンや、窓の外の世界……リョウの見たものを見る作業だった。これでリョウの写真も見納めということになる。最後まで顔のある写真で良かった。ちっぽけなカナブンの写真を一枚だけもらった。その後はひたすら丹念に自分のカメラを磨き、カメラマンとして純度の高い時間を過ごした。
きっとリョウは自分の写真を持っていかない。カメラ一つで行ってしまうのだろう。それでも自分が黙々と現像作業をするのはそれがリョウの世界を知る貴重な機会だからであり、これから会うリョウへのけじめだからである。
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