風を追う男
Chapter6 [3/3]


「忘れ物だ」
 大介はリョウのところまで普通に歩いてゆき、やっとカメラを渡してやることができた。役目を終えて膝が崩れ、その場に倒れこむ。リョウが言葉をうしなってがたがたと震えだす。
「……俺、人殺しちまったなあ」
 ごめんな。ごめんなぁ……。
 震えて泣きじゃくるリョウを見つめながら、大介はずっと彼女をあやすように呟いていた。腹からどくどくと狂った血が抜けてゆく。
「ほら、しっかりしろよ。行け」
「大介さん」
 今まで見てきた人々のように、一目見て死ぬのがわかった。なのにこの男は自分の方を励ましている。リョウは夢中で大介の手を自分の頬にあてると、涙を必死でこらえて「何か言い残すことは」と囁いた。
「ない」
 大介には誰も居ない。わかっていたことだった。わかっていて風の吹いているこの場所を選んだ。
「俺を撮ってくれ」
 リョウが幼い子どものようにこくこくとうなずく。震える手で血に塗れた自分を撮ってくれる。一枚、また一枚と。死の淵で、自分がリョウの記憶に刻まれていくことをこれほど嬉しいと思ったことはなかった。
「撮ったか」
「……撮ったよ! 撮ったよ」
「よし。それじゃあ、行け」
 大介は草原の彼方を指さした。大地と血でつながっていく。自分ももうすぐ土になる。
「走っていけ」
 もう俺は追いかけていけない。
 リョウが行きたくないとばかりにぶんぶん首を横に振った。大介はもうリョウに口で喋ることはしなかった。じっとリョウの目を見つめて、笑いかける。
 走れ。走るんだよ。
 ……全ての言葉を越えて。他に大介に応える術がないことをリョウは知った。最後に少しでも何か残そうと、大介の手に口づけする。大介の体温が最後の灯火のように唇に刻み込まれてゆく。

 やがてリョウは立ち上がった。そして草原の彼方へ、疾風のように走り去っていった。大介の望んだ通り、誰よりも速く。大介はそんなリョウの姿を見えなくなるまで目に焼き付け、リョウがいなくなったのを知ると一人で空を見上げた。
 このまま一人で朽ちてゆく。自分の望んだとおりの人生。

 永い時間。大いなる風に吹かれて流れる雲の河。狂気から抜けた空を初めて見た。空はこんなにきれいだったろうか。無意識のうちにカメラを空に向けてファインダー越しに覗く。ぱちりと一枚撮って、カメラを胸に置いた。
「……うん。綺麗だ」



 名前のない男がいる。腹には銃弾のせいで穴があき、草原に倒れている。もう誰にも彼の名前がわかることはない。そうして、そのまま誰にも見取られずに死んでいくのだろう。
 いつまでも空を眺めていた。
 カメラを胸に置き、風に吹かれ、いつまでも。いつまでも……



 風が走ってゆく。
 人はかつてそれを「疾風」と呼んでこよなく愛した。誰よりも速く走るその後ろ姿が狂気にまみれた心を哀しみで洗うからだった。
 風は泣いていた。その日風は風を追いかけていた男を喪い、一人で走りつづけることを選ばなければならなかった。「走れ」という男の声が聞こえる。風を待つ人は今日も、明日も、これからも増える。狂気が全てを支配するこの戦場で。
「故郷の母さんに僕が死んだって伝えてくれ」
 ただ名前を持ち帰り、顔をカメラに残す。その小柄な身体で必死に抵抗し続ける後ろ姿。
 その日風は今まで一番速かった。叫ぶ力も、泣く力も、全てが走ることに向けられてゆき、足枷になるものをきれいにふりほどいていった。
 狂気はそんな風をも刈り取ろうとした。無数の銃弾で。大地をえぐる爆弾で。
「危ない!」
 キャンプまであと少しというところだった。地雷が足元に牙を剥き、左膝から下を喰いちぎっていった。

 それでも、風は立ち上がる。

 数日後、狂気の国の病院で一人の女性が松葉杖をついていた。黄色い肌のカメラマンだった。左膝から下を地雷でまるまる失い、申し訳なさそうについたおもちゃのような義肢が重みに耐える。
 彼女は何度も廊下で転んだ。その身体は何度も傷つき、大事なパーツを失ったその脚ではもう二度と走ることはできないかに見えた。

 だが彼女には聞こえている。
 戦場の呼び声。自らの心臓の鼓動。
 「走れ」。
 走っていけ……リョウ。──風を追いかけていた男の声。
 ぎらぎらとした瞳で前を見つめるその姿に迷いはなく、いつかまた、彼女は戦場を駆け抜ける。

【End.】

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