時は十三世紀。その国は後のインドにあたる、「ゴール朝」という国だったらしい。
暑い国である。
ヴィークラム・バルガスは職人だった。奴隷(シュードラ)を拘束する鎖を作る、マリーニ家お抱えの職人だった。身分は平民(ヴァイシャ)。王族(バラモン)や貴族(クシャトリヤ)ほど偉くはないが、普通の暮らしができる。熱い鉄を扱うせいで肌は焼け、手の皮は分厚い。彼は鉄職人にふさわしい屈強な男だった。そして彼は今の仕事に不安を抱いている。
マリーニ家の庭はまさに貴族ならではの美しさである。バルガスはその中にひざまづいていた。彼の家は祖父の代からマリーニ家に仕えている。時代が変わっても、することは全く変わらない。ただ黙々と奴隷の鎖を作り続けるだけである。
バルガスはこの仕事が嫌いだった。もともと彼の母親は奴隷の出だったから、彼としては心苦しいのである。
「今度は小さな子供用の鎖を作れ。いつもの鎖だと時々逃げられるからな」
彼の上には一人の貴族がいる。マリーニ家の御曹子、マリノ・マリーニ。バルガスより十歳は若く、いつも周りに美しく着飾った女たちをはべらせている。
「かしこまりました」
バルガスが機械的に答えると、マリノは顎で一人の奴隷を呼んだ。
「こいつを貸してやろう。これに合うような鎖を作れ」
彼の前に投げ出されたのは、鎖を身につけた少女だった。
「お前、名前は?」
「セフェリ」
何ともあどけない声だった。
短い髪はすすけ、首筋には重い鎖のせいで消えない痣がついている。バルガスは家に着くと彼女の鎖を外して、首まわりと手首足首の長さを測った。
「これ終わったらどこへでも好きな所へ行くといい。俺は止めねえから」
彼はそう言うと長さを記録して、家の扉を開けた。それは彼なりの思いやりだった。ところがこの少女は動かないのである。座り込んだままぴくりともしない。
「どうした? 自由にしていいって言ったはずだぜ?」
バルガスは戸を開けっぱなしにしてセフェリの前にしゃがみ込んだ。
「……ごめいれいを……ください」
かぼそい声。手足はすっかり痩せ、何日も洗濯されてない服が震えている。バルガスはこの少女が哀れに思えてならなかった。かける言葉もなく、おそるおそる彼女の小さな手をとる。
手はその時、電気が走ったように震えた。
「やめてぇっ!」
彼は驚いて手を離した。
セフェリは異常なほど怯えていた。
「なんでもするから……わたしを……わたしをいじめないで」
バルガスは眼を見開いた。
彼女の縮こまるポーズに見覚えがある。それはマリーニ邸の前で……いや、金持ちの家の前でならどこにでも転がっている、女奴隷の姿だった。
「お前、何をされたんだ……?」
「……ベッドの上で」
その先が小さすぎて聞こえない。だがそれで十分だった。
「……やめて……やめて……」
セフェリはまだ十歳かそこそこの少女でしかなかった。涙をこぼす姿は人一倍美しいにしても、許されていいことではなかった。
これが奴隷の世界だった。彼らは上の階級にとって人間ではなく、単なる道具であり、玩具であり、命が無くなれば屑でしかなかった。
「俺は何にもしない。怯えるこたぁない」
バルガスが目一杯優しい声で語りかけても、彼女は震えていた。
「もう戻んなくていいぞ。怖かったな。もうそんなことないから、な?」
覗き込んだ彼女の顔は、とても十歳の少女とは思えない美しさだった。美しいが、笑いとは縁遠い姿であるように思えた。
数日後、バルガスは鎖を持って一人でマリーニ家を訪れた。
「ご苦労。金を受け取ってくれ」
目の前に金袋が二つ差し出される。彼は袋を一つだけ受け取ると、顔を伏せてこう言った。
「金は半分で結構です。その代わりにあの子をもらえませんかね?」
マリノ・マリーニが物珍しそうに彼を見る。
「かまわんが、あの奴隷はちっとも使えんぞ? その袋一つで買うのは高過ぎると思うが」
そこまで言うと、マリノは涎を垂らしそうな嫌味ったらしい顔付きになった。
「そうか。”ああいう類の”女が好みか」
「そんなつもりでは」
「よいよい隠すな。確かにあの娘、顔だけは美しかったからな」
バルガスは決して顔を上げなかったが、内心吐き気が止まらずにいた。長年マリーニ家に仕えていて慣れてはいたが、この時ばかりは彼も心底仕事を辞めようかと考えた。
目の前で若々しい豚が能書きを垂れる。セフェリという娘について。奴隷を弄ぶ快楽について。たった十歳の少女を征服した時の奇妙な背徳と達成感について……等々。バルガスは耳を塞ぐことができなかった。マリノを殴りつけることもできなかった。
これが同じ人間だろうか? 「クシャトリヤ」というのは貴族でなく自己満悦の脂でできた豚のことを指すのだろうか?
しかし彼は何もできない。
(俺は豚にも劣るのか)
バルガスは話が終わると庭を出た。何ともやり切れない話だったが、豚に食わせてもらってる以上平民の彼にできることなど、ほとんどなかった。
その日からバルガスはセフェリの面倒を見るようになった。鎖をつけず、食事は自分と同じものを与え、寝るときは同じように床の上で寝た。
彼女は全く心を開かない。口もきこうとしないし、何より触られるのを極端に嫌がる。二人の距離は遠かった。彼は無理に距離を縮めようとはしなかった。彼女には時間が必要だ。心を癒すための時間が。
バルガスは毎日黙々と鎖を作っていた。
「いいか、熱いからそこから先には入るな」
セフェリがこくんとうなずく。彼女は一人で出歩くか、さもなくばこうやって工房にいるのだった。小さな、ススの匂いのする工房の入り口で彼の仕事を飽きもせずに見ているのだった。
毎日同じことの繰り返しだった。一緒に寝起きして、食事して、工房で奴隷用の鎖を作る。しかし彼女の首にもはや鎖はない。
「あなたのおなまえは?」
「ヴィークラム・バルガスだ」
「バルガスさんね」
「おじさんでいい」
鎖の仕上げに集中していて、バルガスはその大きな進歩に気づかなかった。セフェリが自分から話しかけてきたのはそれが初めてだった。
何とも奇妙なおじさんだ……と、セフェリは思う。この数ヶ月というもの、彼女は何もしていなかった。ただ一緒にいるだけで今度のご主人は何の命令もしない。単に話し相手が欲しかったのだろうか?
「おじさんはどうして私に命令しないの?」
「友人に命令する馬鹿がいるか」
身分が違うのに平気でそんなことをのたまうのである。
「じゃあ私はどうすればいいの?」
セフェリがそう訊くと、バルガスは鋳型を作りながら思案に耽った。
「そうさな……自分自身の力で生きられるようになってくれりゃありがたいが、まだお前小さいからなぁ」
「おじさんのお手伝いをするわ」
職人の顔におどけた笑顔が浮かぶ。
「あのな。鉄ってのは甘かねェんだよ。俺は親父について十年もかかった」
そこまで言うと、彼は彼女の方を向いて気楽に呟いた。
「手伝うなら食い物買ってきてくれ」
「おい、俺は貧乏人だぜ?」
バルガスはマリーニ邸の食卓に並ぶような食品の山に肩を落とした。
「す、すみません」
セフェリが頭を下げる。
「いいか、今度からはとにかく安い、”普通の”もん買ってきてくれ」
バルガスはそれ以上彼女を叱る気もなかった。彼は黙って鍋に火をかけ、今晩限りの豪華な夕食を作り始めた。
「ねぇおじさん」
「あ? 何だ?」
二人の夕食。小さな木片がぱちぱちと燃え、互いの顔をゆるく照らす。
母親なしの家族と言っても差し支えない年の差。薄闇の中ではバルガスの顔はさらに力強く、いかつく見え、セフェリの顔はさらに儚く、美しく見えた。
「これが普通の暮らしなの?」
「そうだ」
会話は少ない。だが一緒にいるということは、なぜかありがたい。
「私、こんな暮らし知らなかった。今まで奴隷の暮らしと貴族の暮らししか……」
彼女は戸惑ったままパンをかじった。
「……豆だけのスープは飲む?」
「飲むぜ。たまにはな」
「……じゃあ、スープだけで一日が終わって、次の日もスープで、次の日もスープで、次の日もスープってことは?」
バルガスが手を止める。そうして、しばらく彼女のつぶらな瞳を見つめる。
「金がなくなればそういうこともある。でも、これからはない」
「本当に?」
セフェリの瞳が精錬された鉄ならば、バルガスの瞳は黒くなりたての暖かい鉄でできていた。
「子供一人路頭に迷わせるほど俺も人間できちゃいねえよ」
声ににじみ出る優しさを、セフェリは心の底で受け止めた。
(ありがとう)
そう言う代わりに、彼女は目の前の男をじっと見つめた。彼は何に気づいたのか、笑いながらこっちの方を見ている。
「笑顔が一番だよな」
彼の目の前で、彼女は笑っていた。ほんの少し開いた花に見えた。
マリーニ邸の庭。そこでマリノ・マリーニはいつものように女を選んでいた。今一番のお気に入りは肌の白い長髪の女、タオ。とても奴隷とは思えない気品があり、着飾れば下手な貴族よりずっと目を引く。
「ねぇタオ、何か面白いことはないか?」
彼女は首をかしげた。そんな仕草もマリノにはかわいくてたまらない。そうしているうちに、彼は彼女の首の鎖に目をつけた。
「おや?」
珍しく鎖に絵が刻まれている。それも幼稚な子供の絵だった。
「バルガスの奴が絵を?」
マリノはそこまで言って思い出した。あの男には奴隷が一人いたのだ。
その時、彼の興味の虫が湧いた。一般庶民の暮らしを見るのもたまにはいい暇潰しだろう。何よりあの奴隷をもう一度抱いてみるというのが一興だった。
「タオ、おいで。面白いことが見つかった」
マリノはすかさず立ち上がった。その場限りの好奇心というのは彼にとって重要なものだった。
「鎖とその男に関する記録 / 第一章」