その日も二人は工房にいた。バルガスは鎖につける首輪を作り、セフェリはいつもの如くそれを眺める。今日は火を扱わない日で、彼は鉄の首輪にやすりがけをしていた。鉄の磨かれていく音。あんなにも硬そうな鉄が彼の手にかかると素直に磨かれていく。
外には町の音が溢れていた。あらゆる人が行きかい、それぞれの生活を営む音。セフェリはそれらに耳を澄まして、ぼんやりとしていた。平民の暮らしは本当に気楽でいい。貴族ほど優雅ではないが毎日鞭で打たれることもないし、何より目の前の男は本当の父親よりも数段優しい。彼女にとってそれはある意味夢の暮らしだった。
外で馬車の止まる音がする。誰かが家の戸を叩く音がする。
「お客さん来たよ」
「手が離せねえ。ちょっと出てくれ」
彼女は立ち上がって玄関へ急いだ。そして「お客さん」を見て、立ちすくんだ。
もう見たくないきらびやかな衣装。
「久しぶりだな」
聞くだけで逃げ出したくなる声。彼女は恐怖のあまり声も出せず、どんどん後ずさった。彼女を犯した貴族が逃げ惑うペットを追って中に入ってくる。セフェリが工房に逃げ込んで鍵を閉めると、バルガスは何事かとばかりに手を止めた。
「どうした?」
セフェリは答えられなかった。声が出ず、ただぶるぶると首を振る。扉を叩く音がする。こつこつと、落ち着いた調子の音。バルガスはどうするべきか迷ったが、彼女の只事でない顔を見て護身用に鉄の鎖を持った。
「危ない連中でも来たか?」
彼女はいっとき首を横に振ったが、しばらくするとそれをまた否定するように首を振った。
「あんまりいい客じゃねぇってことか」
バルガスは戸の前に立つと、セフェリに教えるようにして工房の隅の床を指した。
「早く行け。そこの出っ張りをひけば物置があるから」
言いながら鎖を張る。
彼女が床の扉から物置に隠れたのを見届けると、彼は鍵を外してほんの少し扉を開けた。
「よくないお客」は薄笑いを浮かべていた。
「マリノ様!?」
マリーニ邸の庭のままの服装。つま先まで汚れ一つない。
バルガスは慌てて鎖を隠すと扉を開け放ってひざまづいた。
(マリノ様がわざわざうちに来たのか?)
いきなりのことに彼の頭は混乱を極め、いくらでもつけられる理由の山がその中を飛び回った。
「奴隷に鎖もつけないとはな。鎖職人のくせに面白いことをするものだ」
マリノは観光にでも来たかのように工房をゆっくり、ゆっくり歩き回る。消えた少女を捜すというのも彼にとっては遊びでしかない。
「して、どうだった? あの娘は。お前も子供の味というのがどんなものか、よくよくわかっただろう?」
しがない職人を嘲る豚の声。バルガスは頭を伏せたまま歯を食い縛った。自然と手に力が入る。
「マリノ様、私はそのようなことのためにあの娘を頂いたのではありません」
「ならば何のためだ? 身の回りの雑用でもさせるのか?」
マリノの「雑用」とは、何から何まで奴隷にやらせるという意味である。
「その通りでございます」
一方バルガスの「雑用」とは、どこの平民の家でも子供がやっているような手伝いを指す。
「わからん男だ。まあいい。ところであの娘はどこへ行った?」
「……鉄を取りに行かせました」
「入口は閉まっていたではないか」
「マリノ様のお目に触れては失礼かと思いましたので、窓から外に」
バルガスの声はかなり落ち着きのない声だったが、マリノはそれを自分が来たせいだろうと思い込んだ。
「残念だな。それではお前の悲しむ顔が見られない」
彼は自分のおもちゃを拾う程度にしか思っていないのだろう。
「何ですと?」
バルガスが頭を伏せながら眉をしかめると、彼は工房に飽きたのか部屋の外へ出た。
「今日中にあの奴隷を連れてこい。あの奴隷は金袋二つで買い戻してやる」
息をのむ音は彼にも聞こえた。優越感が声にも表れる。
「お前の代わりなどいくらでもいる。連れてこなかったら……わかるな?」
若い、冷酷な笑い声が馬車の方へ帰っていく。台詞の内容は豚、その笑い声はカラスか、猿。
バルガスはマリノが立ち去っても動けなかった。怒りが声にならない。屈強な身体も、鉄を扱う技術も、役に立たない。
彼の心の中ではいろいろなものが天秤にのっかっていた。片方には自分の良心と小さな少女、もう片方には身分と金。逆らえば飢えてしまうという恐怖。いっそのことぶち壊してしまいたい天秤だった。しかしそれができるほど彼は強い人間ではなかった。どちらを取っても、失うものが大き過ぎる。
「おじさん、どうしてお酒を」
「うるせェ! いいからもっと持ってこい!!」
セフェリが怖がっているのにも構わず、バルガスは安物のまずい酒をがぶ飲みしていた。目は数十分前からすわっていて、彼女の前で泣きだしそうになったかと思うと次の瞬間には鎖を手にはめて馬鹿馬鹿しく歌い出したりする。
もう夕暮れである。窓からは橙色の光がさしこみ、人々も家に帰りはじめる。
「もう酒はねェのかよ!!」
声を荒げる彼の姿はまるで別人だった。鞭を打つ支配者と同じだった。
「そんなこと言ったって、お金が」
セフェリが持ってきた金袋の中には銅貨一枚入ってはいなかった。酒に無駄な怒りを掻き立てられバルガスは立ち上がった。彼女はその眼に身の危険を感じた。
彼はなぜか鎖を手に取るのだ。そしてこちらへ向かってくる。
「おじさん?」
彼はその時、乱暴に彼女の手を掴んだ。
どうしようもない恐怖が彼女に襲いかかる。
「やめてえっ!!」
彼は手を離さなかった。そして酔った思考回路でこう言った。
「おめェで金袋二つ! 一ヶ月は飲んで暮らせる! じゃあな!!」
重い首輪が音を立ててはめられる。手首に、足首に、冷たい鉄の輪がつく。
(おじさん? ……そんな……そんな……!!)
セフェリが愕然としたのも見ずにバルガスは鎖を引っ張りだした。
長い道だった。とりわけ彼には長い長い道だった。
「はっ、これで俺も悪人だな」
バルガスは崩れかかった声で笑った。セフェリは足を踏ん張っているが、さすがに大の男の腕力にはかなわない。
「おじさん、嘘でしょ? ねぇ」
「嘘じゃねェっつってんだろ。今日中におめェを差し出しゃ金袋二つだ」
日が沈みかかっている。彼はやけっぱちになって叫んだ。
「俺は自分の暮らしを守るためにおめェを売っ払うんだよ!!」
歩調が遅くなる。足が重い。
彼女は喋ってくれなくなった。足音と、鎖のぶつかり合う音がするだけで、後は何もない。
「……すまねぇ。俺は弱い男なんだ。失いたくないもんが、あるから」
答えはない。
「何か言うことはねェのか?」
答えはない。
バルガスは彼女の顔を見た。
足が止まってしまった。
少女の涙。
涙の色は平民も貴族も、そして奴隷であっても変わらない。誰の目からも、自分と同じ涙がこぼれるのである。
「何だよそりゃ」
バルガスはセフェリの前にしゃがみこんだ。
「違うだろ、お前は俺をののしるんだ。真似してみろ。俺は悪魔だ、人でなしだ……って」
彼女は口元をきゅっと結んでいる。ただ黙って彼を見ている。酔った哀れな男の姿を。
「俺を憎め。けなし立てろ。なんなら殴ったっていいさ。ツバ吐きかけろ。命令だぞ。ほら」
どんなにバルガスが自分を指差しても、彼女は黙って涙をこぼすだけだった。そして、それこそが一番彼の良心を刺し貫く矢なのである。
「頼むから泣いてくれるな」
彼はうなだれてしまった。それ以上はとても動けそうになかった。
(たかが奴隷一人じゃねえか)
彼らしからぬ思考法。彼女を早く連れていかなければ職を失ってしまう。それでも良心は行くなと言う。
(何のためにこの子を引き取ったんだ。できることは、やってやらねえと)
中途半端な自分が惨めだった。
太陽だけが、静かに暮れていった。
夜になって、ようやくマリノ・マリーニの前に二人の下僕が現れた。
「たった数時間でやつれたか、バルガス」
冷笑の先にいるのは自分より十は年上であろう酔っぱらいと、自分より十は年下の奴隷。特に奴隷の方は涙の美しさが絶品である。
「そんなにその娘が大切なのか?」
彼は大きくうなずいて、ろれつの回らない声で何か言いはじめた。
「勘弁してください……この子は、とても深い傷を持ってるんだ……だから……どうか勘弁してやってください」
マリノはそれを鼻で笑った。
「ここまで連れてきておいてそれはないだろ。つくづくわからん男だな」
バルガスは答えない。彼自身にも自分の気持ちがはっきりわかっていないに違いなかった。
「もういい。ご苦労だった」
金袋が二つ投げ出される。
「嫌あぁ!」
セフェリが無理やり連れていかれる。彼は思わずマリノを無視して彼女の方を向いてしまった。
「助けて! おじさ――ん!!」
庭中に悲鳴が響きわたる。バルガスは腰を浮かせて、言葉を必死にこらえていた。眼をぎゅうっとつぶり、切れそうなほど唇を噛みしめ、震えながらうなだれてしまう。
「助けて!!」
耳を力いっぱい塞ぎ、首を振り続ける。
「許してくれ……!」
バルガスは何度もそういい続けた。マリノはそれを冷笑のまま見つめていた。
「予定変更だ。バルガス、命令をもう一つ付け足すとしよう」
彼は虫を弄ぶ子供のように冷酷で、残忍極まりなかった。
「私の寝室へ来い」
それはまさしく毒の囁きだった。
「鎖とその男に関する記録 / 第一章」