二年後。
「セフェリ。おいで」
マリノ・マリーニの傍らには着飾った少女がかしずいている。彼女はマリノのお気に入りの愛妾になっていた。
もっともその顔は二年前から冷たく固まってしまっている。今では口さえきかなくなってしまっている。
それはマリノ・マリーニの二十三歳の誕生日のことだった。彼は奴隷たちにやたらと飾りつけた巨大な輿をかつがせ、その上に数人の女と一緒に乗っているのだった。その中にいるのがセフェリである。
「ごらん。いろんな奴らが下でうごめいているだろう」
彼女は無表情で下を眺める。もとよりちゃんと見てなどいない。
「お前はあいつらを自由に扱えるんだよ。私に心を開いてくれればね」
彼女はその言葉を無視していた。
奴隷たちの姿を見るまでは。
(……!)
横の方で輿を担いでいる奴隷に、彼女の目は釘付けになった。
熱い太陽にさらされてさらに日焼けした上半身。すすけた髪、鞭でぶたれた跡、そして……やや錆びた鎖。
「こらぁ! もっと心をこめてかつがんかァ!!」
小さな子に鞭が飛ぶ。セフェリはうっと目を背けそうになって、その時確かに見たのだ。子供への鞭を鎖で受け止めた、ある奴隷の姿を。その瞳を。
二年前とは大違いだった。昔は暖かい鉄のようだったのが、今では煮えたぎった鉄のように光って見える。彼は彼女の存在に気づいていないらしく、鞭で一発ぶたれるとまた黙って歩き出した。
「セフェリ。あっちをごらんよ」
マリノが彼女をせっつく。彼女はそれに従いながらちらちらと彼の方を見た。二年前の優しさは息を潜め、そこにはただただ凶暴そうな顔をした男がいた。
(血の代わりに溶けた鉄を流したみたい……)
それでも彼女は無表情を繕うことを決して忘れなかった。
「さっきはどうもありがとう」
「……かまわねェよ」
子供が礼を言う先には一人の男がいる。人は彼をヴィークラムと呼ぶ。バルガスという名前は二年前に棄てた。
奴隷になってもなお屈強な身体、何日も洗濯されていないズボン、そして錆びた鎖と、豆だけのスープをもらうための皿。それが彼の全てである。ヴィークラムは毎日スープを飲み、それを鎖にたらすことを忘れない。いくら周りにもったいないと言われても、一日何滴かは必ず鎖にたらすのである。
過酷な毎日。奴隷になると人間は植物化するか、それでも人間であり続けるかどちらかを選ばされる。彼には人間の同胞が何人かいた。特に親しいのは二人いる。
「ったく、腹減ったよなぁ」
一人は彼に初めて声をかけた男で、名前をバールという。
「あたしも。いい加減スープはよしてよ。ポックリ死んじゃうって」
もう一人はその仲間で、名前をカドゥーミという。二人は奴隷たちの中でもカリスマ的な存在らしい。
ヴィークラムはいつものようにゆっくりスープをすすると、それをほんの少し残して鎖にしみわたらせた。
「スープを鎖にかけるのを忘れんな。いいか、”湿らせる”んだ」
バールとカドゥーミはそれにならった。はたから見れば、極めて意味のない習慣であった。
「ねえ、マリノ様」
珍しくセフェリが甘える仕草をしてきたので、マリノはご機嫌だった。
「ん〜? どうした。欲しいものでもできたのかい?」
彼女は少しぎこちなく、恥じらうようにして彼の背中によりかかる。
「あのね、あのね」
小さな手が肩にのせられている。彼女はしばらく時間をおくと、はにかみながら身を引いてしまった。
「やっぱりいいです。畏れ多い」
少女特有のかわいらしさが全面に押し出されている。彼女には本当に珍しいことである。マリノはこの駆け引きにひっかかった。
「何言ってるんだ。私が君の言うことをないがしろにするとでも思ってるのかい?」
「でもやっぱり恥ずかしいから」
彼はセフェリの方に向き直ると、彼女の黒いさらさらの髪を撫でて囁いた。
「教えておくれ。大丈夫、私は君の味方だから」
彼女はちらちら上目遣いにこちらを見る。
「さあ」
彼が優しく彼女を促すと、彼女はうつむきながら小さな声で話しはじめた。
「あのね……私、マリノ様の召使いさんにはいっぱいお世話になったけど……その、どうしてもね、相談したいこととか、あって」
「私に相談すればいいだろう」
「違うの。マリノ様に言えないこととかね、いろいろあるの。だからね」
セフェリは彼の手を取って、小さく言った。
「だから私、自分だけの召使いさんが欲しいの。一人でいいから」
三重にも押さえつけたような大人しい声。マリノはそのいじましさに微笑した。
「なんだ、そんなことか。遠慮しなくても言ってくれれば一人や二人はすぐにつけてあげたのに」
「うん。でもね、もう一つお願いが」
「何だい?」
「……私、自分の気に入った人に召使いさんをしてもらいたいの。だからね、今日一日だけでも、探したくて」
彼女は甘え過ぎないことを心得ていた。こんなことを言いだしたのは、二年経った今日が初めてだった。
「よし、それなら今日までは召使いをつけてあげよう。早く探してきなさい」
マリノは何も知らずに喜んでいる。
「それから、今夜は一緒に寝よう」
セフェリはにっこり笑った。今や彼女の表情は内心にかかわりなく動かせるようになっていた。
地下室はひんやりとしている。暗い上に……水一滴ありはしない。今は乾季なのである。足の踏み場もないほど部屋には奴隷たちが座っており、何とか場所を確保できたものは寝そべっていて、息が詰まりそうだった。水分といえば一人につきたった一枚の皿。それに盛られたスープ。
「ヴィークラム、雨季になるまであとどれくらいだとみる?」
「あと二ヶ月だ。この前がマリノの誕生日だったからな」
どんなに喉が渇いてもヴィークラムはスープを鎖にかけるのを忘れない。濡れた鎖に蚊や蝿が群がってきてももう誰も気にとめていない。いちいち言っていたらきりがないのである。
「でもさァ、雨季になったらなったでジメジメしてヤなんだよネェ。あたしはどっちかっていうと乾季の方が好き」
カドゥーミが呑気にそう言っていると、遠くの方で扉が開いた。
いつものように植物がうめく。
いつものようによれよれの手が伸びる。
「何々? 新入りかな?」
カドゥーミが立て膝で扉の方に目を凝らし、バールは顔だけ同じ方を向く。ヴィークラムは……何もしない。
「おい、お前どう思う……って、ちょっとは見ろよあれを」
「動いたらもったいねえ」
彼は鎖をじっと見て、スープの雫が落ちないように鎖を上下させている。
「何かこっちに来るよ」
「奴隷じゃないみたいだな」
闇を透かしてもなかなか見えない。頼りになるのは耳だけだが……
「この裏切り者ぉ!」
「寄るな、寄るな!」
「売女めが……!」
奴隷たちからは呪詛の声ばかりが聞こえてくる。皿を投げる音も聞こえる。
「マリノの女だ!」
カドゥーミの声で、ヴィークラムは鎖を動かす手を止めた。
小さな女は化粧をして、つま先まで汚れ一つない服をまとい、地獄の中を歩いていた。うめきと、服を引っ張る手と、罵声と皿の飛び交う中を歩いていた。
「……!!」
背中に光を受けた神々しい姿。二年前と同じで、言葉のない唇。ただ眼だけが何歳も歳を取っている。もう子供たり得ない瞳だった。純粋ではない、大人の瞳だった。
彼女はヴィークラムの前に立つと、座っている彼の姿をじっと見つめた。後ろから罵声が飛ぶ。バールとカドゥーミも何事かと見ている。小さな女は言葉もなく、おそるおそる手を伸ばして、彼の頬に触れた。ヴィークラムは目を見開いて何も言えなくなった。
みるみる女が少女に戻っていくのだ。
涙で化粧が剥がれ落ちていくのだ。
暗闇の中でもわかるくらいに。
「ごめんなさい」
少女はその場にへたりこんで泣きだした。助けを求めるように。あるいは深く詫びるようにして。
罵声がやんだ。奴隷たちの視線の中、彼女は汚れ一つない服を着て、孤独な姿のままで泣いていた。
「二年間も……あやまれなかった……。あんなに大切にしてくれてたのに」
いっぺんに感情が噴き出す。少女はヴィークラムの懐で、肉親か何かにすがりつくようにしてわあわあ泣いた。誰もそれを止めない。誰も彼女に話しかけられない。たった一人を除いて。
「そうか。辛かったな」
ヴィークラムには気の利いた台詞など言えなかった。ただぽつぽつと呟くことしかできなかった。
「豆だけのスープはもう飲んでねえな?」
少女はうなずくだけである。泣くのに夢中で、何も言えない。
「憎んでるんだろうな。俺のこと」
彼女が首を振ると、彼は悲しそうに顔を歪めた。彼女の涙は直接彼の肌の上にこぼれている。
「馬鹿野郎。お前は俺を憎むんだよ。そうやってすがられても、俺はもう何にもしてやれねえんだから」
かつては少女を縛った鎖が、今は彼自身を縛っている。
彼は無力だった。
「いいか、俺のことを憎め。憎んで、憎んで、いつか自分の力で生きられるようになったら仕返ししに来い。いつまでもここにいるなよ。俺は絶対タダしゃ死なねえからな」
涙を流しきって、少女が鼻をすする。
「おじさん、私と一緒に上にいこ。私が出してあげるから、こんな暗い所にいないで」
少女の哀願する眼。昔の彼ならばその眼に負けていただろう。だが彼は首を横に振った。
「何で!? おじさ……」
「俺は俺のやり方で出る」
二年前にはなかった強い意思。
「”俺たち”にはもう失うもんなんかねえ」
それは少女を突き放すという意味だった。彼の執念のあらわれだった。
ヴィークラムは鎖のついた手で彼女を起こしてやると、最後に優しい目つきで別れを告げた。
「もうこんな暗い所へは来るな。もし俺が太陽の下に立てたら、その時また会おう」
「……もし、立てなかったら?」
セフェリは忘れることはなかった。
「俺を忘れろ」
ヴィークラムのその一言を。
「鎖とその男に関する記録 / 第二章」