鎖とその男に関する記録 Chapter2-2

「……眠れないの?」
 地下室の夜は寒い。奴隷たちはいびきや歯ぎしりをかく力さえなく、互いの足に枕して死んだように眠っている。
「ああ。お前こそ何で寝ねぇんだよ」
「だって耳元で鎖じゃらじゃら言ってたら眠れないじゃん」
 カドゥーミは見えない仲間に向かって寝たままの体制で話しかけた。
「さっき来た子さ、あんたの何? あんたがマリノの女と知り合いだったとはね」
「その言い方はやめろ」
 声色がにわかに変わる。カドゥーミはいつになく怖い声にたじろいだが、引き下がりはしなかった。
「その様子だとよっぽどあの子に引け目があるみたいだね、いいの? あんな風に追っ放っちゃって」
「いいんだ。もうあいつの面倒まで見てやれねえからな」
 彼女はそれを聞くと即座に言った。
「嘘だね。未練たらたらって言ってる」
 声の主は黙り込む。闇の中に姿を隠して、物思いに耽っているらしい。
「ねえ、あの子のこと可愛いって思ってる?」
「まあな」
「あれってあんたの子供か何かなの?」
「そう思いたきゃ思ってろ」
 カドゥーミは少しずつ声のする方へ転がっていく。寝ている仲間たちを、起こさないように。
「寂しい?」
「別に」
「あらあら。あんたがここにブチ込まれる前に何したか知らないけどさ、あの子今頃一人で泣いてるんじゃない? 泣く所が欲しかったんじゃない?」
 返事はない。
「それとも今頃はマリノの腕の中? あんたに見捨てられたって泣いてるの?」
 カドゥーミはさらににじり寄る。
「辛いよねぇ。『会いたかった』でもなく『必ず何とかしてやる』でもなく『忘れろ』じゃねぇ。忘れるはずないじゃん」
 寒いのだろうか。鼻をすする音が聴こえた。
「俺だってな、忘れたりゃしねえよ。あいつは触られるのが嫌いで、昔は指一本俺に触らせやしなかった」
 鎖のこすれ合う音。
「それがあんな風に泣くなんてよ……。こんな悪人に泣きつかれたって、今は何にもしてやれねえって言ってんのに」
 声が揺らいでいるのがわかる。
「……どうして、俺の所へ来てくれるんだよ……」
 大きく鼻をすする音。カドゥーミはやっと声の主を見つけた。
「あんたは何でも鎖につけるんだね」
 なぜか口元から笑みがこぼれる。
「鼻水もなすりつけちゃえば? 涙だけで我慢しないでさ」
 彼女の言葉は暖かかった。ヴィークラムは顔を見られたのに気がついて、そっぽを向いた。


 乾季はさらに続く。
 ヴィークラムたちはその日、マリーニ家の食料……もとい麦をせっせと運んでいた。灼熱の大地の上を素足で歩く痛み。すっかり加熱されて実際に肌を焼くような鎖の熱さ。何時間も続く過酷な労働の中、体力のない老人や病人は喉を鎖に焼かれて倒れていく。そして鞭を打たれてふらふら立ち上がり、何度も立たされるうちに二度と立てなくなり、路上に投げ捨てられたりする。
「ああやって捨てられた奴らがどうなるか、お前ら知ってるか?」
 暑さに負けて投げ遣りになりながらバールは目を細めた。
「さあ? 知らないね」
「あんまり喋るとヘバるぞ」
 ヴィークラムとカドゥーミも汗だくである。麦袋は肩にずっしりくる重さで、いくつ運んだか数える気も起きない。
「ああなったらおしまいだぞ。”あれ”を農民(シュードラ)が拾ってってな、畑の肥料にして跡形もなく消しちまうんだ」
 バールの目は暑さがこたえてかなりふらついていた。
「普通なら火葬にするのが礼儀ってもんだろうに、あいつらは奴隷を人間と思ってないからな。『死体はもう大地のもの』とか言ってよ、どうせ瀕死なら生きてようが死んでようが関係ないんだ」
 まるで農民を見下すような目つきだった。恨みさえこもっているように見えた。
「随分詳しいこったな」
「当たり前だ。俺は農民の出だぞ」
 三人の目の前でまた一人老人が倒れる。奴隷たちにそれを助ける余力はない。誰もがぎりぎりのところで生きているのである。
「こんなんで豆だけのスープしかもらえないなんて、絶対間違ってるぜ……」
 乾季はさらに続く。
 彼らの苛酷な労働に終わりはない。終わるとしたら上位の人間に見そめられるか、死ぬか、あるいは……。


「干ばつのせいで今年の収穫量は皆無に等しい状況でございます……」
「それが?」
 マリノ・マリーニの前にはいつもと変わらない昼食がある。米、豚肉、鶏肉、魚肉、野菜、果物……いくつもの皿に選りすぐられた材料が調理されて並べられているのである。それも赤や黄色などの香辛料をかけられて。
「このままでは食糧難に陥るかと。マリノ様の食事は確保させて頂きますが、奴隷たちの方は口減らしする必要があります」
 それなりの身分があるらしきその男は、淡々とした口調でそう言った。
「どれくらい減らす気だ?」
 男は沈黙した。言いづらいらしかった。
「どれくらいだと聞いている」
「それでは申し上げますが、この家は地位を誇張するために奴隷を所有しすぎていると言うべきです。昨日付けの人数表がありますが、五百人は多すぎる。せめて二百五十人まで減らすべきです」
「何だと……?」
 マリノの顔がけぶる。男はひざまづいたまま、はっきりと進言してのけた。
「マリノ様ははっきり言って浪費しすぎる。マリーニ家の財産は限りがあるのであって。無限ではございません。奴隷など本来百人いれば十分でございましょう。それをあなたは」
「うるさい!」
 魚肉の皿が飛ぶ。ドレッシングもろとも男の頭にひっかかる。
「……名門の誇りもございましょう。お気持ちもわからぬではございません。何よりあなたはまだお若い」
 四十代後半に近いその男は、顔色一つ変えずに言葉を続けた。
「今日のところはこれで失礼します。ですがあなたには飢える前に決定を下して頂きたいものですな」
 頭にぶっかけられた魚肉を手にとり、男は立ち上がった。声色は恐ろしいほど冷淡で、その裏にある力を感じさせた。
「五百人の奴隷が一日にあなたの十日分を食べていると思えばよろしい。一日遅れれば、十日早くあなたが飢えることになります。よろしいですね?」
 そのまま確固たる歩調で男が立ち去る。マリノは反論できなかった。彼には張りぼてのプライドと、冷めてしまった料理しか残されていなかった。


「おい、水だけで生きろってのか!?」
「いい加減にしてよ!」
 奴隷たちからは日に日に反感の声が湧き上がるようになった。
「うるさい! 黙らんかぁ!!」
 監守が壁に鞭を叩きつける。奴隷たちは闇の中でスープをすする。今までは「まずいスープ」だったが、どうも最近は豆の量が少なくなり「味さえ感じられないスープ」になった。
「干ばつのせいで食い物がなくなってきたんだろうな。このまま雨季に入るとえらいことになる」
 バールは冷静な口調でスープを少しずつ、少しずつ飲み干した。
「にしたって何なのこのスープ!! こんなんじゃ本当に死んじまうよ!!」
 一方カドゥーミは大声で叫んで体力を余計に消耗している。実際、体力のない人間はぼとぼとと死んでいくのである。
「……そろそろ潮時ってことかねェ?」
 ヴィークラムはそれでもスープを鎖にかけることを忘れない。言葉の内容も他の二人には意味不明である。
「ヴィークラム、あんた何が言いたいの? 大体前から思ってたんだけどさ、そんなにスープ鎖にかけて、何がしたいの?」
 カドゥーミが苛立った口調で聞くと、彼は無表情でスープをすすった。
「いいからお前らもやっとけ」
「いっつもそればっかり! あんたって肝心なところは何にも教えてくれないんだから!!」
 空腹がちっとも満たされないせいか、カドゥーミの声は必要以上に興奮している。それでもヴィークラムの声は揺るがない。
「いざっていう時のためだよ」
「でもスープなんてもったいないよ!」
「じゃあツバでもつけとくこったな」
 彼女はそれを聞くと、思いっきり苛立ちをこめてツバを吐きかけた。ツバは鎖にひっつくと、やがて音もなく乾いていくのだった。


「鎖とその男に関する記録 / 第二章」


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