鎖とその男に関する記録 Chapter2-4

「開けやがれ!!」
「薬はないのか!? 何とかしてくれよ!!」
 奴隷たちのがなり声はやまない。壁を叩く音やうめき声も混ざって、どんな音もかき消されてしまう。
「大丈夫か、カドゥーミ!」
 カドゥーミは脂汗を流しながらうなずいた。
「”びゃ”い”びょ”うぶ。あ”ひゃひ”は”びぇ”んぶ”びょびゃびゃひゃっひゃひゃ”ら」
 後半の「飲まなかったから」が余計に事の深刻さを物語る。
「どうすりゃいいんだよ……!」
 バールはそれこそ何百回も辺りをきょろきょろ見回す。スープを飲んだ奴隷たちはみな床に倒れ、泡を吹いているものも少なからずいる。
「嫌だ、死んじゃ嫌だぁ!!」
「おい、もっと早く息をしてくれ!!」
 窒息して死亡者が出始めたらしい。耳まで痺れた者以外の間に恐怖が走る。
「”ひゃ”やく……”ひゃ”ん”ひょはひへ”」
「何とかしてやるからな。しっかりしろ!」
 バールはそう言いながら手を握りしめてやることしかできない。
「ヴィークラム、どうするよ!?」
 彼が呼びかけるのを聞き流して、ヴィークラムは何かを探していた。
「……何やってんだ!?」
「いいからそこにいろ。俺一人でやる」
「だから何を!?」
 そしてある一点で立ち止まる。
 彼の目の前には鎖を引っ掛けるフックがあった。
「監守にバレねえようにしてくれ」
 ヴィークラムはスープのかかった、錆びて朽ち果てた鎖をぴんと張ってフックにひっかけた。
「鉄ってのがどんだけ脆いもんか、お前に教えてやるよ」
 奴隷たちの声で何も聞こえない。ヴィークラムはそのことを確認すると勢いよく鎖を引っ張りだした。
「ヴィークラム!?」
「話しかけんな!!」
 何度も何度も反動をつけては鎖を引っ張り、叩きつける。錆びて赤茶色になった鎖から鈍い音が漏れる。錆びた粉が飛ぶ。
「スープをかけた所だけ音が違う……?」
 真っ黒な部分を叩くと高い音が響く。何度も叩くうちに手首に傷ができる。真っ黒な腕輪に血がつく。
「こんな所で死ねるか……!」
 その時確かに音が変わった。
「こんな所で、黙って殺されてたまるか!!」
 ありったけの力をこめた一撃。
 かつて彼自身の手で作られた鎖は、彼自身の手によって弾け飛んだ。


「例の薬は盛ったか?」
「はい、マリノ様」
 マリノの前には四十代後半の男がいる。
「少々奴隷たちにはきつすぎるのではないかと思いますが」
「いいさ。遊ぶにはちょうどいい」
 マリノの顔は捻じ曲がったプライドで凝り固まっていた。本人には分からないが、人から見れば出来損ないの貴族にしか見えなかった。
「明日生き残った奴らを広場へ出せ。公開処刑の手はずはわかってるな?」
 男は黙ってうなずく。いつものように淡々とした表情で。
「百人だけ、でございますね?」
「そうだ。百人だけ生かせ」
 内側に眠る本性が剥き出しになる。奇妙なせせら笑いが浮かぶ。
「百人だけ生かすと言ったら、あいつらは共食いを始める。生きる欲望だけの虫けらどもがどういう風にして殺し合うか、見物だと思わないか?」
 男は決してマリノの顔を見ない。彼の家来は誰でもそうして良心と、もしくは彼の悪趣味と戦う。
「反乱罪の場合は火あぶりが原則です」
「構うか。お前の方で何とかしろ」
「しかしそれではマリーニ家の威厳が保たれませんぞ」
 マリノはその男ににたりと笑うと、底意地の悪い顔でそれを無視した。
「命令には従うものだ」
 男はほんの少し顔を曇らすと、やむなくそれに同意して退出しようとした。
「ちょっと待て」
 男が立ち止まる。
「この前は悪かったな。詫びておく。お前の名前は何だったかな?」
 男は押し殺した、しかし淡々とした声でこう答えた。
「アーマド・ハリソンと申します。以後お忘れなさらぬよう」
 例によってハリソンと名乗った男は確固たる足取りで庭から退出した。生え揃った髭と押し殺した表情。マリノとは父子ほども違う風貌。
「マリーニ家も堕ちたものだ」
 彼はそんな独り言を呟くと、階段の方へと歩いていくのだった。


「お願い、中に入れて!」
 門番が首を振る。
「一体何の用だ。当家はそんな奴隷を中に入れるほど下賎ではない」
 セフェリは今更ながら服を売ってしまったことを後悔した。今着ているのはそれこそぼろ布であり、とてもマリーニ家に入れる態のものではなかった。
「じゃあ中に伝えて! セフェリが戻ってきたって。反省してますって」
「ならなおさら入れるわけにはいかない。マリノ様から命令が来てるからな」
 門番の声は冷たい。彼女はしばらく門番の目を見ると、悲し”そうな”声で泣きだした。
「お願い……ほんの少しだけでいいから……ご飯もお金もいらないの。だから……」
「駄目だ」
「……お願い……」
「嘘泣きするな」
 門番の声はなお冷たい。セフェリはその言葉を聞くと、とたんに涙を拭いて彼の顔を見た。
「お願い。どうしても行かなきゃいけないの。恩返ししたい人がいるの」
 真剣な声ではっきりとそう言う。門番はその声を聞いて、しばらく押し黙っていた。
「話だけは聞いてやる。だが私も仕事なんでな。私の奴隷ということでこっそり入れ」
 セフェリの顔が明るくなる。門番はそれでも分別面をして、表向きは動こうとしなかった。


 門番はセフェリを連れて地下までやってきた。セフェリは鎖をつけ、うつむきながらちらちらと上を見上げている。なぜか地下は静まりかえっていた。監守が地下室の扉の前にいるだけで、扉からは音一つしない。
「ちょっとこの奴隷を預かってくれないか?」
 門番は親切にもそんな風に言ってくれた。それは彼なりのささやかな協力だった。しかし監守は首を振る。
「今は駄目だ。夕食の時に入れるといい」
 マリーニ邸の日は暮れ始めている。セフェリは黙ってそこに座った。
「しかし中の方も相当滅入ってるようだな。さっきから声一つしやしない」
「何が滅入ってるって?」
「中の奴隷だよ。痺れ薬を朝食に盛ったんだが、飲まなかったやつらが散々暴れてなあ」
 相当苦労したらしき監守の声。セフェリは息をひっ詰めてしまった。
「薬がようやく回ってきたんだろうな。ところで、その子お前のか?」
「そうだけど、それが何か?」
「そいつも運がいいな」
 地下室の手前、はっきり「殺されずに済む」とは言わない。しかし言いたいことは三人とも理解している。
 地下室の扉は重く、その小さな窓の鉄格子からは豚小屋よりもひどい悪臭が漂う。鉄格子からのぞく小さな、深い暗闇はやけに生々しい熱さを帯びて見る者を飲みこむ。
「それにしても、静かなもんだね……?」
 地下室の扉は沈黙している。
 異常とも思えるほどに。


「私はマリノ様を愛しておりますわ」
 マリノにはセフェリの他にも女がいる。タオという女もその一人である。年頃はマリノより二つ年下。美しい女ではあるが、自分を飾り立てることを嫌う癖があるためいつも素顔の上に質素な衣装を着ている。
「みんなそう言うがね、女たちはみんな私の権力や財力を愛してるんだよ」
 彼女の前ではマリノは別人だった。弱さをさらけ出して甘える子供だった。
「私が一度でも自分からあなたのお金に頼ったことがありますか?」
「ないね」
「お金があろうとなかろうと、あなたはあなたです。むしろお金なんて邪魔ですわ」
 世間知らずで、裏表のない女。彼女はマリノの裏側を少ししか知らない。
「お前みたいな子には分からないかもしれないけどね、私はそう言いながら腐っていく連中をたくさん見たんだよ。正直言ってお前でさえも信じられない」
 彼はすっかり”めっき”がはげて、くたびれた心をさらしていた。他人を嘲る心の裏側は、虚しさにまみれていた。
「信じようとすると、いつも裏切られる。やり方がちっとも解らないんだ」
 ごろりと寝転がって、当たり前のように果物をかじり、当たり前のように食べかけを置きっぱなしにする。タオはそれを拾って、きれいに食べる。
「人は私を金の亡者とか何とか言うけど、本当に金の恐ろしさを知っているのは……この私しかいないと思うよ。ねえ?」
 タオは答えなかった。彼女は星が空に昇るのを見ながらマリノの頭を撫でて、それ以上のことは何もしなかった。
「そうだ、明日はここにいるんだよ。私は少し出かけるからね。……いいかい? ”絶対に”外に出てはいけないよ」……。


「鎖とその男に関する記録 / 第二章」


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