マリノは庭の日傘の下にいた。日傘をさしかける奴隷を見ながら、彼はある少女の髪を撫でている。
「結局私に心を開いてくれる人なんていないということかな」
少女の顔は陶器の人形のように硬い。マリノはいつになくしょげかえっていた。
「セフェリ、お前はどうして私に心を開いてくれないのだ? こんなに美しいお前を笑わせるには、一体どうすればいいというのだ?」
セフェリは目を伏せて、小さな声で彼に囁いた。
「あなたが努力してくだされば」
「努力? 私はこれ以上ないほどおまえを喜ばせようとしたではないか! これ以上何を望む!?」
マリノは声色を変えてセフェリの瞳を見た。そしてたじろいだ。
「……座ったまま口だけでできる努力、ですか。それは努力ではなくて横着というものですわ」
彼女の瞳はマリノよりずっと大人の瞳だった。口調のよそよそしさがそれを増幅している。
「身分がどうこう言っているのではありません。人は身分に関係なく苦労すれば……努力すれば、自然と心を開かれるようになるものですから」
これが二年前なら彼女は奴隷にしか心を開かなかったことだろう。
彼女は忘れたことがない。ある平民が自分を養ってくれた頃のことを。身分を気にせず、彼は二人分の生活費を工面するために汗だくになって鉄を打ってくれた。
「熱いからそこから先には入るな」
仕事を押しつけるわけでもなく。そう言って黙々と熱い鉄を打つ姿。今より狭くて粗末で貧乏な暮らしだったが、彼女はそうやって工房にいたときが今までで一番幸せだったと信じている。
「マリノ様、お金で心は買えませんわ。私の心が欲しいのなら、心から人のために流した汗で買ってください」
セフェリは最後の情けをこめてそう言った。上っ面で言ったのではなく、哀れみをこめて、心からそう言ってやった。しかしマリノにはそれが嘲笑の声にしか聞こえないのである。
「私に平民や奴隷をやれということか!? 金を使って何が悪い!!」
精神的に一文も持っていない男。怒り狂うマリノからはそんな感じがする。
「大体そうやって働く連中を誰が食わせてやってると思ってるんだ!? この私だ! そういう連中はな。金なしじゃ働かないんだ!! どうしてお前は、いやどいつもこいつも私を認めようとしない!? 私はこんなに力を持ってるんだぞ!! 金こそ力だ!!」
悲しくわめき散らす彼の姿をセフェリは黙って見ていた。哀れでもあったが、それ以上に彼女は失望した。
「そのお金はどうやって手に入れたのです?」
「下僕どもが私に捧げるのだ。当然だろう!?」
「じゃあその”下僕”の皆さんがこぞってあなたを追い出したら?」
「兵を動かして皆殺しにしてやるさ」
「払うお金もないのに?」
マリノが返答に詰まる。
「金貨の袋みたいね。お金がたくさん入っていれば偉く見えるけど、それ以外には何も入っていないのよ。何も」
「うるさい!!」
彼の平手打ちが飛ぶ。
セフェリはそれに対して、もう怯え一つ見せはしなかった。何度ぶたれようとも涙一つこぼさなかった。
「マリノ様、自分で何とかしなさい。お金で買えないものがどれだけ大切かあなたも知るべきよ」
マリノはまた彼女をぶつと、乱暴にその髪を掴んで脅しにかかった。
「うるさいと言ってるだろ? 今私がお前を放り出せばお前は野垂れ死にするんだぞ。わかってるのか?」
「放り出したいならそうすればいいわ」
意外なほどはっきりとセフェリはそう言ってのけた。そこにはもう怯えた少女の姿はなかった。
「あの人は豆だけのスープでちゃんと生きてたもの。私だって前はそうだった」
自分から装飾品を外して、一つ一つマリノに投げつける。
「人に媚びて生きるなって。自分の力で生きられるようになれって、あの人は教えてくれたの」
「あの人?」
彼はその時思い出した。鉄の鎖で自分の額を割った、あの男。
「あの軟弱な男がか!? 面白い! あの男はお前を売ったんだぞ!? 私に逆らうのが怖いというだけで!」
「でも最後に私を助けてくれたわ」
彼女の声は揺るがない。マリノが気づかないうちに、彼女は変わっていた。
「いつか必ずあの人は外へ出てくるわ。自分の力で。もうあの人は昔みたいに弱くないのよ。失うものが無いから」
「黙れ!!」
マリノが大声で叫ぶ。
「……出ていけ!! 外の世界で惨めに野垂れ死にするがいい!! 死に際に私にすがっても遅いからな!!」
怒りのあまり冷静さを失った声。小心者の子供がわめいているようだった。
「それではさようなら。マリノさん」
セフェリは嫌味ったらしく笑うと、最後にこうつけ加えた。
「この笑顔は餞別に差し上げますわ。心からあなたに笑えたのはこれが初めてです!」
マリノが歯噛みしている。彼女はくるりと振り返ると、そのまま軽い足取りで庭を出て、マリーニ邸から姿を消してしまった。
「……おかしい」
「どうした?」
バールがスープを一口すすって、疑惑を口にした。ヴィークラムはまだスープを飲んでいない。いつもなら真っ先にスープを飲み干すカドゥーミもすぐに手を止めた。
「何か入ってるな。舌がピリついた」
バールは舌をぺろりと出すと、皿を置いて周りの様子を探った。他の奴隷たちの中にも何人かためらっている者がいる。
「おい、スープ飲むのちょっと待て! 薬入ってるかもしれんぞ!」
奴隷たちがざわめきだす。ある者はまったく手をつけず、ある者はそれでも全部スープを飲み干す。
「冗談。あたし半分以上スープ飲んじゃったよ!? それにただでさえお腹減ってんのにそんなこと」
カドゥーミはその時目を剥いた。
「ちょ、ちょっとヴィークラム!?」
ヴィークラムはバールの言葉を聞くと迷わずスープを全部鎖に流し込んだ。未練はカケラもなさそうだった。
「何てもったいないことするのさ!? あんたそんなことしたら体がもたないよ!?」
彼女が止める間もなくスープは乾いた床に吸われて消えていった。カドゥーミは信じられないと言いたげに湿った床を見ている。
「大丈夫だって。ちょっとぐらいなら飲んだって平気だよ! それにマリノがいっぺんに全員に盛る薬なんてあるはずないんだしさぁ!」
「何を根拠に言ってんだ?」
ヴィークラムの声には威圧感があった。他人の言葉を封じるだけの力があった。
「マリノの場合は何が起こるかわからねえ。下手すりゃ毒薬かもしれねえぞ」
スープをかけられた鎖が泡を吹いている。カドゥーミとバールは息を呑んだ。
「嘘。ヤバいじゃんか」
女の引きつった笑い声。止まらない。壊れた玩具のように止まらない。
「はは……あ……なんか……”ひ”たが……”ひ”びれてきたかも」
「おい、大丈夫か!?」
「ビリビリする……”ひ”……”ひ”びれる」
カドゥーミの笑いは止まらなかった。涎をすすることも、それ以上動くこともできなかった。
「しっかりしろ、カドゥーミ!!」
にわかに周りからうめきが上がる。スープを飲んだ連中が部屋中に倒れ、痺れた喉で悲鳴を上げだした。
「”ひ”や! ”ひ”にたくな”ひ”!! ”ひ”や、”ひ”や……!」
カドゥーミは焦点の合わない目で涎を垂らしながら泣きだした。バールがその手を握りながら呼びかけを続ける。
「おい、気をしっかり持てよ……!」
スープを飲まなかった奴隷たちが地下室のドアを叩く。
「開けろ!!」
「俺たちに何を盛りやがった!?」
ヴィークラムはその中で外の監守に向かって叫んだ。
「マリノは俺たちを殺す気なんだな!?」
監守は扉に鞭を打って何か言った。しかし奴隷たちの声にかき消されて、言葉の内容はわからなかった。
二年ぶりに出た町で自分の美しい服を売り払うと、セフェリはあることに気づいた。食物の物価が異常に上昇しているのである。いつもなら二束三文で買えるようなしなびた作物が、それこそ十倍二十倍の高値なのだ。
「どうしてこんなに食べ物が高いの?」
彼女のまだこぎれいな姿を見て、ある商人は干ばつのせいだと教えてくれた。
「お嬢ちゃんみたいに垢一つない子には『干ばつ』から教えたほうがいいかな?」
商人の小馬鹿にした声に彼女はむっとした。
「ふざけないでよ。これでも私は奴隷なの。それくらいわかるわ」
「どうだかね。奴隷だって同じさ。万年食わせてもらってる連中には干ばつなんてメニュー変更程度。違うかい?」
セフェリは何も言えずに店を離れた。実際、彼女には「メニュー変更」さえも行われていなかった。
人々が川岸に集まっている。人ごみならではの熱気が懐かしく漂う。人々の視線の先には、鮮やかな文字で掲示がなされていた。
「ねえ、何て書いてあるの?」
奴隷の彼女は文字を習ったことがない。だからこの手の掲示は人に聞くしかない。
「明日どっかの家で奴隷を公開処刑するんだとさ。反乱罪か何かで」
「反乱……罪?」
「どうせ貴族側の言いがかりだろ」
その親切な男は掲示を読みながらうんざりしたように溜め息をついた。
「この干ばつだ、今時奴隷なんて売れないからなぁ。売ったところで食いぶち取られるんだ、誰も買いやしない」
どうやら最近はよくあることらしい。
「それよりさっさと殺して裏ルートで農民に売った方が儲かるってわけだ」
「売る!?」
「肥料だよ、肥料」
男が当たり前のように吐き捨てたのを聞いて、セフェリは冷や汗が出るのを感じた。
「それ、どこの家?」
「ん? ……えと、近くだな。あの大きな屋敷のとこだよ。マリーニ家っていう」
残酷な響き。思わず気が遠くなる。男が何か声をかけたのも全く聞こえない。
彼女は群集の中で立ち尽くした。
『兵を動かして皆殺しにしてやる』
たった数時間前にマリノがそんなことを言ったような気がする。そして彼ならやりかねなかった。
少女がよろよろと群集から抜け出す。みるみる歩調が早くなる。
「? お嬢ちゃん?」
男の声を背に、セフェリは全速力でもと来た方向へ走り出した。
「鎖とその男に関する記録 / 第二章」