鎖とその男に関する記録 Chapter2-6

 女が燭台でヴィークラムを突き落とそうとする。彼は彼で燭台を掴み、割れた窓の内側に手を掛けてそれをもぎ取る。窓の鍵を外して窓を開けると、ヴィークラムは強引に中へ飛び込んだ。
「今すぐ俺たちを開放すると外に宣言しろ!!」
 マリノは無言でドアの方へ後すさる。女はこちらへ決死の覚悟で飛びかかってくる。
「外へ逃げようったって無駄だぜ」
 ヴィークラムは女が飛びかかってきたのを紙一重でかわすと女の首筋を鉄の首輪で打った。気を失った女が割れたガラスの上に落ちないように受け止めると、足にガラスが刺さって血が出てきた。
「誰が開放などと! 奴隷風情が何を言う」
「貴族の”くせに”身の危険もわからねェか?」
 今や立場はすっかり逆転していた。猛獣が小さな豚を追い詰める。しかし、豚は脂ぎった脳味噌でなおも引きつった笑みを浮かべているのだ。
「お前は殺さないさ。私を殺せば生きてここを出られない。そうだろ、バルガス?」
 脂ぎった、しかし正しい言葉だった。
「”ひょ”びらが……”ひょ”われる……!」
 地下室の扉が悲鳴を上げる。
「バリケードが崩れるぞ!!」
「廊下まで下がれ!! 広い所で戦うなよ!!」
 二階の奴隷たちが最後の砦に集まる。ドア越しに二人にもその足音が聞こえた。マリノに余裕が戻ってくる。
「お前こそ降伏しろ。そうすれば命だけは助けてやる。外の連中もだ」
 時間はどこにもない。戦いが始まったら最後、外にいるバールやセフェリ、地下のカドゥーミや多くの仲間たちが殺されるのも時間の問題である。
 ヴィークラムは一瞬迷った。命が助かるという言葉は一見目指していた目的にも思えた。しかし首からぶら下がった鎖は無言で何かを訴える。何かとても大切なことを。
「さあ、その鎖を身につけろ。お前らは結局飼われずに生きることなどできないんだ!!」
 マリノの言葉は「大切なこと」を浮き彫りにした。彼は完全に墓穴を掘った。
 バリケードが破壊され、武装集団が入ってくる。奴隷たちの雄叫びが聞こえる。ヴィークラムは割れたガラスの破片を拾うとマリノを片手で締め上げた。
「な、何をする」
「お前にこの声が聞こえるか?」
 彼はマリノの首筋にガラスの破片を突きつけると、ドアのカンヌキを外した。僅かに空いた隙間から凄まじい雄叫びが聞こえてくる。
 奴隷たちの執念の声が。
「俺たちを自由にしねえ限りあの声はやまねえ。今俺にお前は殺せねえが、あの声は違う。
 ……あの声は、いつか必ずお前を殺す」
 同じ執念に満ちた声が聞こえる。マリノはその声に怯えた。
「二度は言わねえぞ。お前の言うべきことはたった一つだ。忘れるなよ。俺もあいつらも”その一言”がねえ限りお前の命を狙う。腕一本で首をへし折ってやるしな、首だけでも喉笛噛みちぎって殺す。俺たち全員の髑髏を並べたとしてもな、全員が全員お前を呪えば死ぬより恐ろしい目に遭うぜ。
 さあ、どうする」
 奴隷たちの執念がマリノに巻きつき、いつでも彼を絞め殺せる蛇になった。死の恐怖に身分の差はない。そしてマリノは闘えるほど強くはなかった。
「永久に感謝されるか永久に命を狙われるか、二つに一つだ。答えろ!!」
 ヴィークラムはドアを蹴飛ばして騒乱の中へ割って入った。
「剣を引け!! 引け――――っ!!」
 マリノが大声で喚き立てる。
 武装集団と奴隷たちの動きが、止まった。
 廊下は瞬く間に静まりかえった。マリノの首筋に破片が光る。
「私は奴隷たちを解放する! 一人残らずだ!! 兵は下がれ!!」
 困惑を隠しながら、それでも兵が十歩ほど後へ引く。ヴィークラムは破片を音もなくその場に捨てて、マリノを放した。
「おい、もう一度言ってみろ」
「もう一度だと」
 マリノは自由になったはずなのに動けなかった。
 ヴィークラムの瞳が、バールやセフェリの瞳が、奴隷たちの焼けた鉄の瞳が、まだ彼を見ている。マリノはヴィークラムの言葉の正しさを身をもって知った。思わず身震いした。
「脅されて出た言葉でなく、お前が”自分で”言った言葉が欲しい」
 長い長い静寂。
 マリノは震える手で服の汚れをはらい、乱れた髪を整えた。

「私は奴隷たちを全員解放する。
 マリーニ家の名において、二言はない」

 それは戦いの終焉の言葉だった。
 奴隷たちから歓喜の声が上がる。ヴィークラムの顔からも、微笑がこぼれる。
「怪我人を連れて外へ出るぞ! 手の空いた奴は地下室へ行って他の奴らを運び出すんだ!」
 ヴィークラムはそう指示して武装集団に割り込むように歩き出した。後から奴隷たちがそれに続く。
「マリノ様、今すぐ攻撃しますか?」
 兵士の一人が囁くと、マリノは首を振った。
「いや、絶対に手を出すな……」
 いつの間にか冷や汗が垂れている。
 ヴィークラムの足跡は血に染まっていた。裸足の赤い足跡は泥の足跡に混ざって、他の奴隷たちを導いているように思えた。


 朝と共に奴隷たちは町へと散っていった。
「ヴィークラム、これからどうする?」
 まだ痺れの取れないカドゥーミをおぶってバールは歩いていた。その隣には手足に包帯を巻いたヴィークラムがセフェリと一緒に歩いている。
「また職を探すさ。これでも俺には鉄職人の肩書きがあるからな」
「ねぇ、あたしたちといっ”ひ”ょに来ない?」
 カドゥーミはバールにもたれながらそう言った。
「”ひ”まのまま”びゃ”……やだ、まだ”ひ”びれてる」
「……今のままじゃ食えずに奴隷に逆戻りってのが大半だからな。仲間たちにも集まる場所を伝えてある」
「何の話だ?」
 ヴィークラムは眉をしかめた。セフェリも歩きながら顔を上げている。
「奴隷だけで反乱軍を作るって話さ。この世の中を変えなきゃ俺たちはいつまでたっても奴隷だ。俺たちの子も、孫もな」
 バールは朝日に目を細めながら堂々とそんなことを言ってのけた。
「そんなの無理だろ。おもちゃの兵隊じゃあるまいし、食っていけねえよ」
 そんな反論にも彼は耳を貸さない。カドゥーミは彼の背中で笑っている。
「金ならあるさ」
 バールの声と共にカドゥーミは何かの袋をくわえてみせた。
「あ、何それ」
 セフェリは袋を受け止めてその重さに仰天した。中には金貨や宝石の類が目一杯詰まっていた。
「何だこりゃあ!?」
「マリーニ家でちょっと細工して頂いた。仲間たちも全員同じのを持ってるはずだ」
 バールは度肝を抜かれたヴィークラムに不敵な笑みを浮かべてみせた。


「マリノ様、ちょっと金庫においで願えますでしょうか? お話があります」
 アーマド・ハリソンの押し殺した口調に呼ばれてマリノが金庫に入ると、ハリソンは単刀直入にこう言ってきた。
「マリーニ家は終わりです」
 やたらに重々しい口調。いきなりのことにマリノがぎょっとする。
「気でもふれたか? 何があった?」
 ハリソンは黙って金袋を一つ手にとると、それをマリノの前で開けてみせた。目の前で彼が愕然とするのがわかる。
 袋の中には金貨など入ってはいなかった。入っていたのは金色ではなく、真っ黒な奴隷たちの鎖とスープの皿だった。どの袋を開けても鎖と皿ばかり。あまりにも粗末な中身が彼をあざ笑う。
「今すぐ追っ手を差し向けろ!! あいつら皆殺しにしてやる……!!」
 彼がヒステリックに叫ぶと、ハリソンは打たれた鐘のように即座に言った。
「手遅れです。市民に紛れた奴隷を見分ける方法はありません」
「しかしこのままでは……」
「マリーニ家が奴隷に敗北したと市民に知らしめたいのですか?」
 彼の一言はマリノの弱点を正確に突いた。マリノが苦悶のうめきを上げる。
「私は事後処理がありますのでこれで失礼します。全て終わったら辞職致しますので、よしなに」

 ハリソンが金庫から退出する。自分の失意を押し殺して扉を閉じる。残されたマリノは機械になって、これからのことを考えはじめた。
 働く奴隷はいない。兵士たちに賃金を払って、ことごとく破壊された家具を捨てて、それからどうする? 大体賃金はどこから出せばいいのだ? ほかにも働いてくれた者たちに払う金は……?
 彼は鎖とスープの皿の前に屈服した。
 他には何もない、一文無しの貴族。
 マリノ・マリーニは鎖と、スープの皿に……奴隷たちに完全に敗北したのだった。


「マリノの死にそうな顔が目に浮かぶぜ」
 バールとカドゥーミが大口を開けて笑う。ヴィークラムとセフェリは目を丸くするばかり。見たこともないような金銀財宝だった。
「こんだけありゃ十年は平和に暮らせるぜ。反乱軍なんて作らなくてもいいんじゃねぇか?」
 ヴィークラムが驚き入りながら言う。バールとカドゥーミはそれに首を振った。
「十年だけだろ。その後俺たちが奴隷にならないって保証はない」
 バールはヴィークラムの目を見ながらセフェリの肩に手を置いて、思い入れのある目でこう言った。
「この子だってそうだ。この子が子供を産めば、そいつだってそうなる。お前はそれに耐えられるのか?」
 にわかにヴィークラムの目の色が変わる。セフェリの澄んだ瞳が、こっちを見ている。バールは金銀財宝の袋を彼女に持たせて立ち止まった。もう分かれ道の所まで来ていた。
「俺たちはこの金で明日を買う。奴隷なんて身分のない世の中を買ってやる」
 冗談や酔狂ではなかった。彼の眼はまだ熱い鉄のままだった。背中のカドゥーミの眼も同じである。
「お前も一緒に戦ってくれ。俺たちはこの先の市場にいる」
「待ってるから」
 二人は強制しようとはしなかった。ただそれだけ言って、歩き出してしまった。ヴィークラムとセフェリはそれを見送る。声一つかけずに、見送る。

「おじさん、これからどうする?」
 つぶらな瞳がこっちを見上げている。
 途方もないほどの自由が二人の目の前にある。
 そしてこれからの道標も。
「まずは傷を治して、スープ以外のもんを食う」
 ヴィークラムは優しくセフェリの頭を撫でた。
「そしたら明日を買いに行こう」
 穏やかで、はっきりした言葉。セフェリは満面の笑顔でそれに応じた。こんなにも嬉しそうな笑顔は、初めてだった。

<第二章・了>


「鎖とその男に関する記録 / 第二章」


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