それから時がどれくらい経ったのだろう。ある物乞いは指で数えてみた。乾季は四回くらい来て、雨季は今五回目を迎えている。
雨の降る町。物乞いはつめの先まで誇りならぬ埃にまみれた姿で橋の下に寝そべっていた。彼は周囲の人にも有名な流れ者だった。物乞いの仕方が何とも変わっているのだ。普段なら物乞いたちはひたすら頭を下げるものなのに、その男はこう言うのだ。
「何か私に献上しろ。わたしはこれでも貴族だぞ。お前たちとは身分が違う」
筋金入りの気違いなのである。人々は結果として彼を頭の弱い人間と判断し、哀れみをこめて毎日財布の隅の小銭を恵んでやるのだった。人々は彼が本物の貴族だと知ってもやはり同じようにすることだろう。
その日、彼は雨の中で狂喜している奴隷たちをたくさん見かけた。お恵みもみるみるたくさん溜まっていく。
「おい、何があった」
奴隷たちは雨の中で踊り狂い、鎖を河の中へ投げ捨てた。
「反乱軍の革命が成功したんだ! 僕たちは自由になったんだよ!!」
物乞いの目が見開かれる。
「反乱軍万歳! 同志たちに万歳!!」
土砂降りの中、物乞いの前で次々と奴隷たちが飛び出してくる。町が人々の声で埋め尽くされる。
お祭り騒ぎの中で物乞いは茫然とした。歴史上に「ゴール朝 滅亡」と記されたその日、彼はまだ二十七歳だった。
四年にわたる戦いの中で、反乱軍は数十万の奴隷を味方につけた。彼らの四年間は身分との戦いの歴史であり、一方で犠牲者の歴史だった。
「おい、代表のお言葉があるぞ」
「集まれ集まれ!」
首に消えない痣、つまり鎖の痕を持っていた者は誰でも同志だった。奴隷たちは王族と貴族と平民を足しても追いつかないだけの数と量をもってゴール王朝を制圧し、ついにこの日自由を手に入れる。
奴隷たちの前に現れた男は自分を格式付けるものなど何一つ持ってはいなかった。古びたシャツとズボンを着て、足の傷を隠すように粗末な靴を履いている。ただそれだけだった。
広場に集まった仲間たちが言葉を待つ。代表と呼ばれた男は手首の傷跡を穴があくほど眺めて、人々に語りかけた。
「俺たちが立ち上がって四年が経った。みんなのお陰でようやくここまで来た」
人々から歓声が上がるのを彼は抑えた。
「でも! ここまで来るために俺たちは何千何万の髑髏を踏み越えてきた。死んだ奴らの顔を一人くらいは必ず知ってるだろう? 俺だって喜んで誰かを犠牲にしたんじゃねえ!」
人々が声を失う。彼が少しの間黙祷をささげると、人々はそれにならった。
「死んだ仲間のために約束してくれ。この勝利を無駄にはしねえってな」
雨が降っているのに、人々の熱気は留まることを知らない。それは熱い鉄からのぼる蒸気に似ていた。
「俺たちはここに宣言する。ゴール朝は今この場をもって終わり、身分はなくなった。今日からは全ての人間が同志だ!!」
男は力強く手を振り上げた。
それは存在を否定され、抑圧されてきた数十万人の奴隷たちを一斉に人間として蘇らせ、自由へと開け放つ。広場はかつてない喜びの声に溢れ、人々は口々に彼らの偉大な代表の名を呼んだ。
「同志ヴィークラムに万歳!!」
同じ時間に、物乞いの前に立った女がいる。土砂降りのせいで寒い。
「マリノ様」
すすけたぼろきれをまとい、髪の毛も髭も伸び放題。そんな物乞いの前に女は手をさしのべる。物乞いは女の手をとると、雨の中へいざり出て体の汚れを洗い落とした。ボサボサだった髪は後ろへ押しやられ、女の知っている顔が髭をたたえて空を見上げている。
四年の歳月は彼からプライド以外の全てを奪った。逆に言えば、四年という歳月をもってしても彼のプライドを洗い流すことはできなかったのである。
「タオ、お前はまた私に仕えてくれるか?」
雨の中で女がうなずく。彼女は自分の心に忠実に生きていた。
「たとえどんな姿をなされていようと、あなたはあなたです。そして私は、今でもあなたを愛していますわ」
叩きつける雨に洗い流されて、垢が落ちていく。マリノの顔は四年の間に脂ぎった醜さがすっかり抜けて気品だけを残していた。優美ささえ漂っているような気がした。タオはこの悪名高い男に魅せられていた。プライドの裏の脆さ、素直さに盲目になっていた。
「家へ案内しろ。新しい服が欲しい。それから身なりを整えてくれ」
何の代償もない勝手な命令さえいとおしい。彼女はそれにうなずくと雨の中を歩き出した。
奇妙な光景だった。奴隷たちは自由の喜びで舞い上がっているというのに、この二人は何の抵抗もなく古い身分の中へ身を投じていく。踊る奴隷たちを横目に見ながら、小さな家へと歩いていく。
「身分が無くなるはずなどあるまい。主人なくして奴隷は生きられないのだから。お前もそう思うだろ、タオ?」
「……私は貴族なら誰でも仕えるわけではありませんわ。あなた以外の方には、私も自由でありたいと思っています」
小さな意見の相違。
「まあよい。礼を言うぞ」
マリノはそれでも満足だった。たった一人でも家来がいてくれるのは、それまでの四年間を思えば実に頼もしい限りだった。
反乱軍の中では酒宴が行われていた。
「ははははは! もっと祝おう!」
「おい、飲み過ぎるなよ」
四年経ってもカドゥーミとバールはやっぱり変わらない。彼女の方は仲間たちと大酒を喰らい、彼の方はほどほどに、といった調子である。
「ヴィークラムは飲まないのか?」
「俺は下戸なんでな。……ちょっと一人にしてもらえねえか? ヘトヘトなんだ」
「そんなこと言ったってなぁ……。今はどこへ行ってもお祭り騒ぎだしなぁ。大体お前代表なんだから付き合えよ」
バールが特上品の酒を突き出して口元で笑う。
「今夜の酒は格別美味いぞ」
微笑のあと、それでもヴィークラムは手をひらつかせて酒宴を後にした。
道にいる人々が次々に彼を称え、酒宴の中へ誘おうとする。英雄の登場を酒の肴にしようとする。まったくもって人々のイメージというものは恐ろしい。まるで神様のように彼を拝みだす人を見るたびに、ヴィークラムはぞっとした。
「頼むから一人にしてくれ」
そう言って自分にあてがわれた部屋に閉じこもり、彼はやっと息をついた。
奇妙な光景だった。彼にあてがわれた部屋はかつての王族の、それも王の部屋だったらしく……自分たちで占領したとは思えないくらい贅沢な調度品が置かれている。あまりに何もかも高級過ぎて落ち着かない。
「明日になったらこんな部屋は全部ブッ壊そう……眠れやしねェ」
ヴィークラムはいまいましそうに超高級なベッドの上に倒れこんだ。絹の中にきっと高価な鳥の羽でも入っているのだろう。実に優しく体が沈んでいく。自分の身の上を考えるたびに彼は思う。運命というやつは物好きだ……と。
本来、彼は代表になどなる気は全く無かったのである。彼としては前線で戦い続けようと思っていたのだ。確かに始めのうちは前線にいた。生まれてから働き詰めで何も知らない奴隷たちの中で、平民出の彼の機転は初期の勝利に大きく貢献した。しかしそれはやがて彼に人望を集め、次第に高い地位へと押し上げていった。……彼の意思に関わらず。
挙句の果てが数十万のてっぺんである。
「何で俺が偉くならにゃいかんのだ」
ヴィークラムが愚痴を吐くと、こつこつと扉を叩く音がした。
「一人にしてくれ!」
少し声を荒げると、音がやむ。
「それじゃ、後でみんなのとこへ来てね。これからのこと話し合うって」
残念そうな声である。
「……ちょっと待て!」
ヴィークラムは重い体を起こしてドアを開けた。
「悪かった。疲れてたんでな」
「いいの。おじさんは頑張ったもの。疲れるほうが当然だわ」
七年前のすすけた髪はすっかり長く美しく伸び、小さかったはずの背はいつのまにか大人と同じところまで高くなっている。
年月は誰より彼女を変えた。
十七歳のセフェリはもう少女ではなかった。
ヴィークラムと彼女の関係はその後も限りなく「家族」に近いもので、周りは二人のことをすっかり親子だと見なしている。セフェリといる最近の彼はどうにも「父親の哀愁」が漂っているような気がしてならない。
「これでやっと普通に暮らせるんだね」
セフェリの微笑みを見て、やっと彼は肩の荷が降りたような気がした。それは何よりも彼に平和の訪れを知らしめた。
「そうだな。もうお前も奴隷扱いされなくて済む」
すっかり大きくなった「娘」の肩を叩き、部屋の外へ出る。
出会ってから七年が経つ。
ヴィークラムは今、三十七歳である。
「鎖とその男に関する記録 / 第三章」