鎖とその男に関する記録 Chapter3-5

 ある日、タオは起きられなくなった。連日の疲労が溜まっていたらしく体がぴくりとも動かない。
「タオ、起きろ。朝食を用意してくれ」
 マリノが肩をゆすっても夢うつつのまま。
「起きるんだ!」
 寝ぼけ様に張り飛ばされる。鉛のように重い体を引きずって朝食を作り、塩を入れ過ぎたのかあっさり捨てられ、もう一度作り直す羽目になる。
 そして、水汲みの仕事へと出かけていく。最近風邪気味らしく気持ちが悪い。
「どうして遅刻した!?」
 自分が何を言ったか覚えていない。とにかくここでも殴られた。それから桶を担いで川と仕事場を十五往復くらいした。水を入れた桶は肩に食い込み、雨が降っていても傘は差せなかった。雨よけの服も着られなかった。足がよろめいて転び、水をこぼしてどやされ、頭をへこへこ下げた。
 食欲はなかった。何も食べなかった。薬を買おうとしたら高くて買えなかった。仕方なく食べ物だけ買って帰った。夕食は果物だけ食べた。
 寝ようとして、またマリノに付き合わされた。眠気が引かずに何度も殴られた。食べた果物を吐いてしまって、また殴られた。こうしていつもの一日が終わった。
 翌日、また起きられなかった。
 怒鳴られ、殴られ、家を出た。

 ふらふらふらふら歩いていると、不意に自分がどこへ行けばいいのか分からなくなった。
 太陽が眩しい大通り。頭の中は真っ白。暖かい空気が抱いてくれている。
 タオは大通りの中で倒れた。


「マリノさまぁ!! 大変だよー!!」
 子供たちが窓の所へ走ってくる。マリノはその時も窓辺でぼんやりしていた。ここの窓には、ちょうど陽があたる。
「どうした。何かすごいことでもあったか?」
 子供たちは息を切らせて大通りのほうを指差し、足をまごつかせている。
「マリノさまの、おくさんが」
「おくさん? そんな者はいないぞ」
「じゃ何でもいいよ、あの一緒に住んでるお姉さんが……」
 マリノは眉を曇らせた。よほど子供たちは慌てているらしい。
「タオがどうした?」
「大通りで死にそうなんだ! 早く来て!!」
 マリノは耳を疑った。子供たちの目は嘘をついていなかった。
 彼は靴も履かずに窓から外へ出た。子供たちと一緒に走って、見知らぬ路地を抜け、塀を乗り越えたりもした。体力の無さを思い知らされる。子供たちはどんどん先へ走っていく。足が痛い。
 それでも何とか大通りに出て、彼は次に目を疑ってしまった。
 大通りで死ぬ人間など珍しくもないということだろうか? 彼女が道の上で倒れていても誰も見向きもしない。ただ、子供たちがお姫様を囲むようにしゃがみ込んでいるだけである。夢中で駆け寄ってみると子供たちは道を開けてくれた。みんな不安げに彼女を見ていた。投げ棄てられた人形のように髪を乱して、だらりと四肢を置いている姿。
「大丈夫。気絶しただけだ」
 大きく息をついてしまった。思わず緊張の糸が切れて、変な顔になった。タオはちゃんと息をしていた。道端で寝ているのと何ら変わりなかった。
「タオ、起きろ」
 少し強めに頬を叩くと、子供の一人がそれを庇った。
「お姉ちゃんすごい熱だよ! マリノさま朝気づかなかったの!?」
 マリノが手を止める。
「熱?」
「そうだよ! 流行り風邪だったら早く薬買わないと死んじゃうよ!!」
 子供たちが騒ぎ出す。逃げ出す子も、泣きだす子もいる。マリノがタオの額に手を当てると焼けた鉄板のような熱が伝わってきた。喉が渇いているらしく、息も辛そうである。
「まさか。こいつは若いんだから大丈夫だろ。とりあえず起こさなきゃ」
「あれを見てもそう言える!?」
 子供の一人が指差した先には、路上で動かなくなっている「珍しくもない死体」がごろごろと転がっていた。若者も少なからずその中にいて、蝿をたからせていた。
 息が詰まって冷や汗が垂れた。
 奴隷の死は見慣れていたはずなのにである。
「タオさん死んじゃったらどうしよう」
 残った子供たちがぐずり出す。いきなり断崖絶壁に立たされた気がした。考えてもみなかった。
「とにかく、連れて帰ろう。私の家へはどうやって帰ったらいいんだ? 案内してくれ」
 マリノはタオを抱き上げようとして、人の体が意外と重いことを知った。
「おい、病人がいるんだ、手伝え」
 道ゆく人々にそんな口調で呼びかける。誰一人来ようとはしない。
「おい! 手伝えと言ってるだろ!!」
 一人の腕を掴むと、振りほどかれた。
「たかが”奴隷”に構ってる暇なんかこっちには無いんだよっ!!」
 そんな捨て台詞が胸を刺す。
 誰も助けてはくれなかった。
 彼は立ち尽くすしかなかった。


 マリノはタオを抱きかかえて、子供たちに案内されるがままに歩いた。
「お笑いだな。自分の家も分からない」
 裸足で走ったら足の裏の皮がめくれた。砂利も入っていそうだった。彼女の重さがそのまま激痛に変わる。自分は針地獄の上を歩いているらしい。
 休み休み歩いて何とか家に着くと、マリノはタオを床に寝かせてから自分の足を水洗いした。
 叫ばないように声を呑み込むので、精一杯だった。子供たちから見て「めちゃめちゃ痛そう」な顔をしていたらしい。消毒もできず、彼は膝歩きで動くしかなくなった。
「マリノさま、何かすることある?」
「そいつに、水を飲ませてくれ」
 子供の一人が水がめから水を持ってきてタオに飲ませてくれた。
「よし。後は何もしなくていい。もうお帰り。日が暮れる」
 マリノは夕暮れの中に座って子供たちを見送った。痛みをこらえて笑った。
 そしてすることがなくなった。
 通りの音さえ聞こえない。人は通らないし、鳥だってこの場所を避けている。久しぶりにタオの顔を見たような気がする。他に何も考えられない。

 醜い顔だった。
 何と醜い女だろう。顔は腫れ上がり手はカサカサで髪の毛も汚い。今までずっと美人だと思っていたのに。昔は確かに美人だったのに。自分の前でうめく家来など初めて見た。家来という仕事は主君に苦しみを見せず、醜いところを隠そうとするものである。
 それでも彼女は起き上がれない。
 手だけが微かに動いている。マリノはタオの横に座って、その手を取った。
「おまえの手はボロボロだね」
 昔は白魚のようにすべすべした手だった。貴族らしい暮らしをしていた頃、人の手はどれも彼女のように滑らかだと思っていた。それが今はすっかり荒れている。
「どうしてお前だけこうなった?」
 彼は閉口して手を握り続けていた。すべすべした自分の手。皮肉なほど健康な自分の体。心は前よりもずっと軽くて、膿が抜けたようだった。
 今日の彼女は夕食を作ってくれない。
 仕方なく、果物と野菜を丸かじりする。
 話し相手にもなってくれない。
 仕方なく、何も言わずに座る。
 抱けそうにもない。
 仕方なく、手を握って見守る。

 夜の闇の中で言葉が渦巻く。
「私がお前を食い潰しているのか? いや、お前が仕えているだけだ」
 疲れ果てた手を握っているのは自分である。
「お前は何が欲しい? 私は貴族だからお前に好きなものを買ってあげよう。金か? 地位か? 宝石か? そうさ、貴族はいつも何だって持っているんだよ」
 こんな時まで皮肉を言ってどうするのだろう。だが何もしないことが辛くてたまらない。
「そして苦しい時にはすぐにお医者と薬をつけてやる。栄養のある食べ物を食べて、すぐにお前は、よくなる」
 自分に皮肉を言っていないと、気を紛らわせていないと、おかしくなりそうだった。彼はやっと矛盾に気がついた。
「それが貴族の暮らしだ。家来はみんな金や権力に仕えているんだ。こんなみすぼらしい家でひっそり暮らしてるのは貴族なんかじゃ、ない」
 彼女の顔は自分が殴ったから腫れていた。自分が働かなかったから彼女の手は荒れ、すすけた髪を洗う時間さえ失った。
「それでもお前は私に仕えるのかい。確かに貴族の誇りはある。

 でも、それだけだ。お前に返してやれるものなんかない」

 マリノは理解できない感情に戸惑った。胸の中から液体があぶれてきて、座ったまま溺れ死にそうだった。
「お前のせいで私も病気だよ。息をするのが、とても苦しい。それから、胸がいっぱいで苦しいよ……痛みなら足の方がずっと痛いはずなのにな」
 息をしようとして上を向き、溺れないように口をぱくつかせる。恐怖が頭を支配し、何かがこぼれおちる。
「……」
 たすけてくれ。……この手まで亡くしてしまったら……
「死ぬのか、お前」
 亡くしてしまったらどうしよう。
 そう思った時、彼は子供になってしまった。どうしても両目からこぼれる涙を抑え、泣きやむことができなかった。
(私がたかが奴隷に、涙を……?)
 そう思っても苦しみは止まらないのだ。理屈抜きに悲しくて、怖かった。どうしたらいいのかわからなかった。
 マリノはそのままタオを起こさないように声を殺して泣き伏せった。寝つくまでにかなりの時間を要した。


「鎖とその男に関する記録 / 第三章」


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