鎖とその男に関する記録 Chapter3-6

 ヴィークラムは始終溜め息をついていた。バールが何か言っているのも全く聞こえていない。
「おい聞いてるか!?」
 その声で彼ははっとした。
「い、いや。すまねえ」
 バールにまで溜め息が伝染する。彼は机の上に書類を置くと、もう一度最初から説明してくれた。
「だから、流感のせいで死亡者が増え続けてるんだよ。薬が足らんのだ」
 書類はすべて薬関係の手続きに関するものだった。
「何だ? この前買い占めろって言ったばっかじゃねえか。あれはどうした?」
「今手を回してる。だが安売りしようにも売る薬がない有様だ。急いで作らせてはいるんだがな」
 ふーん、と相槌を打ちながらヴィークラムはサインを書きまくる。しかしその速さはいつもより数段遅い。
「お前最近冴えに欠けるよな。考え事でもしてるのか? 一人で」
 手がいっとき止まり、再び動き出す。また溜め息の音がした。
「いや、セフェリの奴は今何してんのかな――……と、何となく」
「何となく何だよ」
「何となく面白くねぇっつうか、その、だから、気分が重いっつうか」
 またしても手がみるみるのろくなる。バールは納得したようにうなずいた。
「なるほど。確か王女はキジキス家と縁談が進んでるんだったな。オズワルドとか言ったっけ? あそこの長男坊の名前は」
「俺の前でその名を呼ぶな」
 ヴィークラムの顔は不機嫌の塊である。どうやら問題が的中したらしい。
「ヴィークラム、諦めろ。こればっかりは父親の宿命ってもんだ」
「んなこと言ったってよ、おめェにはこの気持ち、わかんねェんだろうな」
「わからんな。俺独身だし」
「カドゥーミとは結婚しねェのか?」
 バールは問題を自分に振られてひらひらと手を振った。
「ないない。あんなに派手な女と誰が結婚なんか。お前こそセフェリの母親が必要なんじゃないのか」
「要らねえよ、そんなもん」
「いいのかぁ? 娘を嫁に出したら一人だぞ。俺は慣れてるからともかく、お前は寒さが身に凍みて辛くなるぞー」
「まだ決まってもいねェのにそういう不吉なこと言うなっ!!」
 バールがおどけて怖がってみせる。ヴィークラムは舌打ちすると再びサインを書き出して、苛立った声で呟いた。
「この頭の上についてる王冠は何だ? 悪霊が面白がって作ったに違いねえ。まったくどいつもこいつも……」
 今の境遇がいまいましくてたまらない。だが頼ってくる人々を助けるために、手を止めることはできなかった。


 タオが目を覚ましたのは早朝だった。
「……」
 喉が引きつって声が出ない。部屋は薄暗い青が漂って寒かった。聞こえているのは外の雨の音だけである。
 動こうとして、動けなかった。すっかり体力を消耗しているらしかった。手だけが暖かかったので見てみると、隣でマリノが眠っていた。自分の分の肌かけをタオの上に重ね、自分は肌かけもなしに手だけしっかりと絡めて床の上で縮こまっていた。
「マリノ様」
 手を握ってゆらしてみると彼は簡単に目を覚まし、こちらの方を見て何とももどかしそうな笑顔を浮かべた。
「大丈夫か、タオ?」
 タオは答えられなかった。どうして家にいるのか覚えていなかった。
「マリノ様、これは一体……?」
「どうしてもっと早く体の調子が悪いって言わなかったんだ。お前大通りで倒れていたんだぞ?」
 至極自分勝手な意見だった。休みたいと言った時は殴ったくせに。
「心配したんだぞ、治ったらこのお返しはさせてもらうからな。起きられるか?」
 タオは恐る恐る首を振った。殴られるかもしれないと思って、体を縮めた。
 ……ところがマリノは殴らないのである。
 ただ額に手を当てて「熱いな」と言うと、立て膝のままで水瓶の方へと歩き出した。ぎょっとした。マリノの足の裏は鉄やすりで削られたような傷で埋め尽くされ、かさぶたで赤黒いまだらができていた。
「マリノ様、その足……!」
「裸足で走ったからだ。ひ弱でいけない」
 彼自身はちっとも気にしていないらしい。
「さ、水を飲むんだ」
 マリノはタオの体を起こすと、そっと水を飲ませてくれた。果物までくれた。信じられないくらい優しかった。
「どうして私なんかに……?」
 タオは寝そべりながらマリノにそっとそう言う。
「私にも、わからないね」
 彼はそれ以上は何も言わなかった。ただ複雑な顔をして彼女の隣に座り、手をつないでくれた。
「マリノ様も召し上がってください。私はもう少し眠っていますから」
 マリノは黙って首を振った。
「そうですか。じゃあ、少し寝ますね」
 タオは何も考えずに、というより何も考えられずにゆっくりと眠った。雨の音が強くなった。彼の手がとても暖かく思えた。それだけだった。
 一方、マリノはそのまま起きている。窓を眺め、台所を眺めるのを繰り返して、そのうち窓だけを眺めるようになる。
 小さく腹が鳴ったような気がした。
「あとどれくらい持ちこたえられるか」
 台所など見る気もしなかった。食べるものはもうほとんど残っていなかった。


 じりじりと腹が減ってゆく。雨ばかり降る。自分が地面に這いつくばるカビのように思えてくる。タオは全然元気にならない。
 マリノは床に寝転がって体力が減るのを少しでも遅らせようとした。朝から何も食べていなかった。今は昼なのだろうか? 雨のせいでちっともわからない。感覚的には夕方だろう。多分。絡めた手はまだ暖かい。それだけが生きている証拠だった。他にはまるで証拠と思えるものがなかった。
「……マリノ様」
 タオが起きたらしい。見ると、彼女は熱い息を吐きながらこっちを見ていた。
「大丈夫ですか? 顔色が」
「大丈夫だ。お前も寝てるといい」
 彼女は彼の瞳が変わったと思った。蛇のような強さがなくなっていた。
「マリノ様、食べるものは残っていますか? 私のことはいいですから、お召し上がりになって」
「お前が寝てから食べたさ」
 血色の悪い顔。動いた気配のない手。何よりも目をじっと見ていればわかる。
「もう食べ物が無いんですね……?」
「何を言ってるんだ。私を信用できないというのか? いいから寝てろ」
「あなたの目を信用しているからです」
 マリノは返答できなかった。
「……働きに行かなきゃ……」
 タオが無理やり起き上がろうとする。手ががくがく震えていた。
「やめろ、寝てるんだ」
「でもこのままじゃ」
「いいから!!」
 マリノがそれを無理やり寝かせつける。彼は膝で立ち上がると台所へ行ってテーブルの上をあさった。
 ……しなびたジャガイモが一つだけだった。
「タオ、イモ料理の作り方を教えろ」
 タオは目を丸くしてしまった。マリノは鍋をかまどの上に乗せている。本気で作るつもりのようである。
「私が作りますからいいですって……」
「いいからそこから教えろ。命令だぞ」
 意地っ張りで真剣な子供の顔。仕方なくタオは寝たままでゆでイモの作り方を教えた。火をつけて、水からイモをゆでて、塩をちょっぴりふる。たったそれだけなのにマリノはとても緊張していた。かわいらしくもあった。最後に皿にイモを乗せた時の顔といったらそれはもうやたらに誇らしげで、いかにも主君の誇りは守ったぞと言いたげだった。たかがゆでイモなのに。
「さあ、今日はこれを食べてもう寝よう。明日のことは、明日だ」
 彼はしなびた小さなゆでイモをさらに半分に割って――正確には、半分に割ったうちの大きいほうをタオにやって――それをタオといっしょに食べた。
「マリノ様、皮と芽のところは食べないでくださいね。毒がありますから」
 彼女は少しずつイモを食べる。塩が効き過ぎてしょっぱい。
「失敗作だな」
 マリノは全部食べてからしょんぼりしてタオの顔色をうかがった。
「おいしいですよ。とても」
 なぜか彼女はにこにこしながら食べている。
「お前塩辛いのが好みなのかい?」
「そうじゃありません。マリノ様が作ってくださったのが、嬉しかったからです。本当にありがとうございました」
 彼女は皮を皿に置くと、ぺこりと頭を下げてから布団に潜りこんだ。マリノはそれを台所に戻し、それからタオに気取られないようにもう一度だけ食べ物を隅々まで探してみた。
「まったく、私もどうかしているよ」
 もう何も残っていなかった。しかしそれを顔に浮かべたくはない。
「タオ、おまえは昔の暮らしに戻りたいかい?」
 マリノは急にそんな質問を投げかけて彼女の隣に寝そべった。
「マリノ様は戻りたいのでございましょう?」
 タオはいつもそう言う。家来としては当然の返答といえた。
 いつもそうだ。家来はみんな主人のご機嫌をとるように教育されている。マリノは不意に虚しい気分に襲われた。
「本当にそう思うか?」
「え?」
 彼女が困惑した顔になると、彼は毛布の中に入って手をつないだ。
「目をつぶって聞け。寝てもいいから」
 彼女はますます混乱したが、それでも言われたとおりに目をつぶってうなずいた。
 しばらくの間、沈黙が続いた。
「……私は貴族として生まれ、何の不自由もなく育てられた……と思う。あの環境が普通で、こんな暮らしは劣悪だと思っていた。人々はみな華やかな服を着て、暇を持て余して茶を飲み、くだらない話にふける。そういうものだと思っていた」
 手に力がこもるのがわかる。手が自分に「寝ないで聞いて欲しい」と言っている。
「……だがこのむなしさは何だ? 金と権力を失ったら、お前しか戻ってこなかった。私はあらゆるものを憎み、憎しみを心の中で火にくべて生きるしかなかった。あの暮らしに戻ったら、私は同じことを繰り返してしまうような気がする」
 沈んだ声だった。いつもの得意げな口調ではなく、飾り気のない声だった。
「結局一番大切なことは、あの暮らしの中には見つからなかった。私は何もかも失ったら、自分のこともわからなくなってしまった」
 手を握り返して「聞いていますよ」と応えると、向こうも握り返してきた。
「私はとんでもなく無力だった……。一番大切なことは、ここにしかなかった。 もうあの生ぬるい棺桶には……二度と帰りたいとは思わない。かといってすぐにはこの気性を捨てられそうもない。また貧しさに音を上げて戻りたいと言いだすかもしれない」
 あまりにも弱気な声は、そこで途切れた。
 しかしマリノは何度もタオの手を握る。
「……マリノ様。私はそれでも構いませんわ。他には何か……?」
「……いや、別にいい。……おやすみ」
 何かつっかかった声だった。
 タオは眠ってしまった。しかしマリノは眠れずにいた。
 たった一言が言えなかった。思いの半分も伝わらなかった。
 彼は自分が貴族だったということを心底後悔した。たったで一言でいい、「すまない」と謝りたかった。けれどもすんでの所でプライドが邪魔をする。言ったが最後、自分の「家来」はいなくなって、この手もほどけてしまうのではないか。
 たった一人の人間にさえ心を許せない。
 そんな自分が無性に悲しかった。

 翌日タオが起きてみると、マリノの姿は消えていた。枕元に水がコップ一杯置いてあるだけで、何もなかった。


「鎖とその男に関する記録 / 第三章」


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