都会の片隅にしてはあまりにも静かな夜だった。いつもはビルや道路の車が騒音をがなり立てているのに、その日の夜は遠くにサイレンがなり響いているだけ。見上げれば何と暗い星空。それに埃にまみれたぬるい風。
おれは今日も変わらぬそぶりでベンジャミンを捜していた。とりあえずおれの夜の日課がそれだったから。とりあえず、何かわけのわからないことがあったら奴の悟りきった能書きを聞くに限る。
しばらくふらふらと歩いているとカフェ「ぺぺ」のあった瓦礫の上で不機嫌そうなユリシーズに出くわした。
「おい、ベンは?」
「お客が入ったって行っちゃったわよ。全く、こんな夜くらいお客の家で寝たいわ。屋根と風除けがありゃ何だっていいわ。ここで野宿よりましだわ。何でわたしよりあいつの方が売れるのかしら?」
ユリシーズは媚びたワンピースから煙草を出そうとしてケースが空なのに気がついたらしい。今にもヒステリーで叫び出しそうだ。ケースを投げ捨てた。彼女がベンジャミンより売れっ子になれないのは多分この癇癪持ちがあるからだろうと思う。黙っていればアイドル並に可愛いのに。
「ねえ、ヘロイン持ってない? この際スノーでもいいよ。もう吸わなきゃやってらんない!」
「売り切れだよ」
おれがそう言い渡すと彼女はがっくりと肩を落とした。無理もないと思った。
「ねぇ、ボビー。私たちこれからどうなっちゃうんだろう」
ユリシーズと一緒に都心を眺めると、そこにはまさに廃墟があった。
要するに崩れた高層ビルと、それを覆う天の火と、瓦礫と化した低い家々と、その上で途方に暮れる人々。おれたちもその片隅に含まれていた。要するに地震だった。とてつもなく大きな衝撃が都心の真ん中から突き上げ、水の波紋のように拡がっていって周辺一体を残さず嘗め尽くす……そんな感じだった。
「どうなるって、お前とベンは売りを続けりゃいいしおれはおれでいつもの所に行って商売するさ。エリックだってやっぱり空き缶拾ってるだろ。……そういやエリックは?」
「ベンを捜しに行ったわよ!」
ユリシーズは喚きながら幼い脚をばたつかせた。
「もう、どいつもこいつもベンベンって、ベンのことばっかり!
大体なんであいつコンドーム持ってるのよ! わたしなんて逃げるのが精一杯で、そこまで気が利かなかったわよ!! おかげで商売もできやしない!!」
「わめくとシワ増えるぜ」
「うるさいっ!!」
きっと後でおれにしわ寄せが来るんだろう。ヘロインかスノー、それとコンドーム。この調子だと石鹸とベビーパウダーとチョコレートまで買い出しに行かされるかもしれない。
「……『裁いてはいけません。裁かれないためです』」
「何よそれ」
「ベンの受け売り」
おれはベンの能書きが無性に恋しくなった。奴が子供とは思えない語り口で能書きを垂れると、おれも、エリックも、癇癪持ちのユリシーズでさえも本来の年齢に束の間戻れた気がした。
「あいつったら、聖書の中にコンドーム挟んでやがったのよ。だからこんな時でも商売できるんだわ」
確か全員十二歳だったはずだ。
あいつなら何があっても聖書は持ち出すに違いなかった。いい隠し場所だと思った。
カフェ「ぺぺ」がまだきちんと立っていた頃、おれたちは暇になると四人でつるむのが日課だった。おれたち四人にはそれぞれ仕事があり、特にベンとユリシーズは不定期な仕事だったから四人揃うのはほんの短い時間だけだったけど、それでも十分楽しかった。おれたち四人はなぜだか仲がよかった。
ベンはカフェ「ぺぺ」でも指折りの男娼だった。細い目に眼鏡をしていて、それほど美人ではない。白い肌にそばかすのある普通の少年だった。ただ、人の心を読む力がずば抜けて高かったから大人たちにひどくもてはやされた。「皮肉だけど天職だよね」とは彼の言。
趣味は本を読むこと。ベンは特に聖書をよく読んだ。カフェの隅っこで聖書を読みながら客を待つベンの姿はおれの目にも不思議な静けさを見せつけていた。
「『裁いてはいけません。裁かれないためです』」
心が揺らいでいる時に奴の能書きを聞くと、心が落ち着いた。ベンは読み書きのできないおれとエリックに何べんでも繰り返し色々な能書きを垂れてくれた。
「『あなたがたが裁くとおりに、あなたがたも裁かれ、』……で、……その次何だったっけ?」
エリックなんかは続きをそらで言えるように努力していたが、なかなかベンのようにはいかないらしかった。
「『あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです』」
「あぁ、それだそれそれ!」
エリックは、とにかく身なりが汚い奴だ。おれたちの中では唯一汚い仕事をしないで生きている。空き缶拾いだけど。黄色いすきっ歯で笑う姿には苦労が見えない。密かにそれだけは認めてもいい奴。
「あんたはナリが汚すぎるのよ。仕事の邪魔になるから髪と歯ぐらいきれいにしなさいってば!」
ユリシーズはそう言ってしょっちゅうエリックに石鹸を貸してやり、エリックは「ありがとう!」と叫んで素直にそれを使っている。変な奴だが憎めなかった。ベンもその辺はおれと似た心境だったみたいだ。
「エリックには薬なんか売っちゃ駄目だよ」
「わかってるよ」
おれはそう言いながらベンにスピードを売り、ユリシーズにヘロインやスノーを売っている。そうして、二人の上についてるポン引き&用心棒の「マクワイルド・ブラザーズ」に挨拶をして、客を探す。それが日常だった。凡人の暮らしなんて考えたこともなかった。
「なぁ、ところでおれ思ったんだけどさ、その本の言葉って一体どんな意味があるんだ?」
いつかそんな風におれが呟いた時、ベンは一瞬手を止めて憂い顔をしていたような気がする。おれは知っている。こいつはスピードを使って一日で聖書を全部読みきったことがある。
しかしその時はそれ以上話を聞くことができなかった。
「そんなの決まってるだろ。ズバリ! 『おれたちは救われる』ってことだ」
エリックが大声で即答したせいで注意が逸れたのだ。次の瞬間、意識をベンの方に戻してみると彼はいつも通り微笑んでいた。
「そういうことさ」……と、そう呟いて。
おれたちが瓦礫の上で街の大火を眺めているとエリックがすすだらけになって帰ってきた。
「おうい。ベンは帰ってきたー?」
「帰ってないわよバカ」
ユリシーズが毒づいてもエリックは一方にこたえない。彼はちょっとだけ当てが外れた顔をして、防災用に被ったナベをおれたちの前でようやく脱いだ。
「考えてみたら今空き缶拾っても引き取ってくれる所がないんだよね。おれ明日からどうしよう」
何でもスクラップ工場がぺっしゃんこになっていたらしい。エリックは一人で生きてきて随分長いからこれくらいではちっともめげないのだが、それでも工場復帰まで食いつなぐ方法を考えないことには、にっちもさっちもゆかなかった。
「ベンなら何かいい方法知ってるかと思ったのになぁ」
エリックのすぐ隣りに居る飢え。彼は必要以上に怖れを持つこともなく、瓦礫のうえに寝そべる。今日だけは静かだった。どこの店から音楽が流れてくることもないし、騒音もここでは随分小さい。
「うおー、暗ぇー!」
エリックは暗さまで楽しんでいるようだった。おれたちの持つぎすぎすした感情がそこにはない。
何でお前は笑っていられるんだよ、エリック。時々おれやユリシーズはそう思うのだ。
「なあ、おれさ、またあそこの続き忘れちまったんだけど、誰か続き覚えてるか?」
エリックは聖書の一節をいくつかそらで言えるようになっていた。
裁いてはいけません。裁かれないためです。
あなたがたが裁くとおりに、あなたがたも裁かれ
あなたがたが量るとおりに、
あなたがたも量られるからです。
……
いつもベン以外続きを覚えていない。だけどおれたちはよく続きを思い出そうとしていた。エリックにつられたのだ。一旦つられてしまうとそれはまさに格好の暇潰しになった。
「私、最後の方のアレだけ覚えてるわよ。『求めよ、さらば与えられん』」
あの言葉だけは好きだとユリシーズが続けた。
「『求めなさい』じゃなかったっけ?」
「同じよ。同じならカッコいい方がいいわ」
「そうかなぁ……?」
エリックはベンの言い方の方が好きだという。あの穏やかな声で語られる穏やかな言葉の響きの方が、わかりやすくていい。……心にすっと入るという。
……
求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見つかります。
叩きなさい。そうすれば開かれます。
誰であれ、
求める者は受け、探す者は見つけ出し、
叩く者には開かれます。
男娼のはずのベンジャミンが、その時だけは牧師みたいな穏やかな顔をしていた。そのことを誰が忘れるだろうか。みんなベンの仕事が何かを知っている。だけどさげすむ奴なんか、一人もいない。
「後で途中のところをベンに教えてもらおう」
エリックは聖書の言葉を唱えた後でそう言った。明日の楽しみが一つ増えたらしい。微笑んでいた。
夜が過ぎ、朝になった。
青空の下で崩れた高層ビルたちが煙突のように煙を噴いていた。
「マクワイルド・ブラザーズ」――兄弟揃って巨躯だ――そのポン引きの兄貴の方、ゴーグがやってきて
「ベンジャミンはまだ帰っていないのか」と訊いてきた。
ベンはまだ帰ってきていなかった。おれはエリックと手分けして、ユリシーズを留守番に残し都心の方へベンを捜しに行くことにした。
都心はまさに光と、静かに燃える廃墟だけの世界だった。車もなく、電化製品や人々の喧騒もない。足元を埋め尽くした瓦礫の地面。見上げれば音もなく白々と燃え、煙を上げる灰色の巨塔。そして紺碧の青空。
これ以上ないほど世界は荒れ果てていたのに、まるでそこは天国のように静かなところだった。天使が降りてくるとしたらきっとこういう日に違いないと思った。
戻ってくるとユリシーズが泣いていた。
嫌な予感に襲われながらユリシーズに手を曳かれ、歩き出す。
やがてそれは疾走になった。怖くて彼女が泣いている理由は訊けなかった。全身から汗を吹き出すほど走った。
小さな人混みに囲まれてエリックはそこにいた。腰が抜けたように座り込んで、ただ一点だけを見つめて。
哀しい予感がした。おれは人混みの中に入る前に悟らなければならなかった。エリックの前に寝ているのが、誰なのか。
廃墟の片隅に光が差し、彼の体は倒れたまま衆目に晒されている。十二歳のベンジャミンという少年だった。下半身を裸に剥かれ、血染めのポロシャツ一枚の酷いすがた。体中に加えられた暴力の痕が彼の死を物語っていた。特に顔は血膨れで、トマトが潰れて腐ったみたいになっていた。眼鏡はどこで無くしたんだろう。当然そばかすがわかるはずもない。目のあたりにある二つの隙間から、濁った目が開きっぱなしでそのまま腐るのを歓迎しているだけ。エリックはその隙間から目を逸らすことができないまま口をくぐもらせてずっと何かを呟いているようだった。
叫べばよかったのだろうか。泣けばよかったのだろうか。
気がつくとエリックのズボンの膝から下が赤くなっている。ベンの全身から湧いて出た血の池の上で、エリックはひざまづいて彼の手を握りしめていた。
「エリック、膝から下が血だらけだぞ」
そう言おうとしたができなかった。血の池はおれたちの足の下にまで、すっかりと、染みとおっていた。
ユリシーズは全員の耳をつんざくほどの悲鳴を上げた。ポン引きのゴーグになだめられると、それはやがて涙混じりの激しい怒声に変わった。
「あいつよ! あの夕べの客だわ!! あいつがベンを殺しやがったんだわ!!
……殺してやる。殺してやるわ!! 殺すのよ!! 放して!!」
おれは自分がどうすればいいのかわからなかった。ただ、さっきから全く動かないエリックの様子が気になった。おそらくここに来てからずっとああなのだろう。もしかしたら第一発見者かもしれない。ごもごもと口だけを動かしつづけて、あとはまるで廃人のような姿。
「おい、エリック。エリック!」
エリックの側に行って、おれは一瞬動けなくなった。正確には、エリックの口から洩れる”それ”が、俺の思考を一瞬止めた。
『……裁いてはいけません。……からです……』
やめろよ。聖書なんか。
無性に涙が出てくるのを必死でこらえる。ユリシーズがやってきて、エリックの言葉を聞く。ユリシーズがエリックを本気でひっぱたく。
「やめなさいよ!! 何であんた聖書なんて口ずさむのよ!!
そんなもんが何の役に立つっていうの!? 何の役に立ったっていうの!? 何の役に……!!」
彼女は言葉に詰まって何度もエリックをひっぱたいた。一発として手抜きしなかった。何度も、何度もひっぱたき続けた。
手を止めたらまたエリックは聖書の一節を唱え始めるだろう。わかっていてやった。彼女には他にどうしようもないことを、誰もがわかっていた。
「聖域の子供達」