『裁いてはいけません。裁かれないためです。
あなたがたが裁くとおりに、あなたがたも裁かれ
あなたがたが量るとおりに、
あなたがたも量られるからです』
……
かつてない巨大地震による混乱にまぎれて、ベンジャミンの遺体は警察にも渡されることなく「マクワイルド・ブラザーズ」の手によってひっそりと火葬された。
天涯孤独の、どこにでもいる子供の死。ベンの死はそのように扱われた。彼の死を悼んだ人間はおれたち三人と、彼を燃やした二人だけ。たったそれだけだった。
「エリック。ズボン……洗わないのか?」
帰り道は最悪だった。ユリシーズは憎しみの虜になって何度でも爆発を繰り返しそうだったし、エリックは神経の糸が切れたみたいにぼうっとしてほとんど何も喋らない。エリックの薄汚れたズボンは膝から下がベンの血で赤黒く染まったままだった。
「洗えって言っても……洗わないんだろうけどさ」
「駄目よ。洗うなんてとんでもないわ。あの客を殺すまで絶対に洗っちゃ駄目!」
ベンはやはり夕べの客に殺されたとみて間違いなさそうだった。ポン引きのゴーグはさすがにこういう状況に詳しい。
「地震で警察が全然機能してないからな。ベンジャミンも多分相手のヤバさを読み違えたんだろう。犯人が今頃怯えているとは到底思えん」
下手をすればユリシーズも死んでいたかもしれない。そんなゴーグの話にユリシーズは一瞬ぞっとしたらしかった。
「どうする。しばらく仕事やめとくか?」
ゴーグも単純な悪人ではないのだ。やはり手持ちの駒とはいえ、いたいけな少女を殺人者の前に晒すことはしたくないのだろう。
しかしユリシーズにもプライドはある。
「ふざけないでよ! 私は自分で稼いで自分でやっていくわ!! そんなことよりコンドームと石鹸買ってよね。あとシャワーも。
私はお金を貯めて銃を買うわ。そしたら復讐だってしてやれる」
「復讐ね……」
おい、どうするよ弟。
ゴーグはおれたちの後ろを見て言った。おれたちの後ろには、「マクワイルド・ブラザーズ」の弟――用心棒役のネスが仏頂面を引っさげて黙々と殿をつとめていた。ネスはゴーグと違って、どちらかというと武人肌だ。武人肌だから兄のやっているビジネスに苦しむのだろうか。……とにかく、饒舌な男ではない。
「ガキを殺す奴は人間じゃねえよ」
そう吐き捨てたきり、彼は何も言おうとしなかった。
復讐。きっと、やろうと思えばできる。何よりユリシーズとおれは大金を稼げるだけのことをしているし、マクワイルドの二人もまんざらでもない様子だ。
ベンをあんな風に殺した奴を許すことなどできるものか。少なくとも、何もしないで生きていくことなどできない。絶対できなかった。それだけはできなかった。おれはユリシーズと同様に必ずベンの復讐をすることを心に誓った。
「エリック、お前はどうするんだ?」
おれがエリックに話しかけると、エリックは呆けた様子で何もかもを聞き流しているようだった。
残酷なほど蒼い大空。その懐へ上ってゆくたくさんの煙たちをエリックはじっと見つめている。
「……エリック?」
エリックは空に吸いこまれそうな目つきをしたかと思うと、いきなり道をそれて瓦礫の丘を登りだした。セメントとコンクリートの欠片のみでできた灰色の大きな丘。日の光を浴びながら、より空へ近づくように一心に登っていく。
おれは思わずエリックの後を追っていた。そうしておれが丘の中腹くらいに達したところでエリックは頂上に届き、青空を見上げて何かを詠唱した。
求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見つかります。
叩きなさい。そうすれば開かれます。
エリックの黄ばんだパーカーが風をはらんで浮き上がる。どんなに汚れてもなくならない、白い翼。ズボンの膝から下には赤黒い血をまとって。
「ゴーグさん」
エリックは丘の頂上から大声で叫んだ。
「神様に頼めばベンは帰ってくるのかな」
それ以来、エリックは復讐のことに関して頑なに口を閉ざすようになった。
日頃は明るく振る舞っているようでも、いざ復讐の話になるとおれやユリシーズが何を言っても喋らなくなってしまうのだ。ユリシーズなんかはすぐにかっとなってエリックに怒鳴った。
「何よ! あんた悔しくないの!? ベンのあの姿見て、相手をブッ殺してやろうとか八分刻みにしてやりたいとか思わないわけ!?」
それでもエリックは喋らない。そのまなざしには殺意というより、どうしたらいいのかわからない心情の方がまさっていた。
「もういいわよ! 私は勝手にやるからね!!」
ユリシーズはエリックを突き飛ばして行ってしまう。エリックはそのままその場所に突っ立って、動こうとしなかった。エリックはベンが死んでからどこか人が変わってしまった。前はバカなことばかり喋ってて黙ったりなんかしなかったのに、今はベンのことになると明らかに別人だ。その沈黙が、おれにはやるせない。
「エリック」
エリックはユリシーズが行ってしまってから口を開いた。
「……おれ、バカだからさあ。わかんないんだよ。どうすればいいのか。……何が、一番正しいのか……」
こういう時ベンはいつも答えを教えてくれた。でももうベンはいない。おれにあいつの代わりはできない。
おれが黙っているとエリックはふらりと歩き出した。
「どこ行くんだ」と訊くと、「わからない」と答えた。
「ベンの聖書を捜しに行くんだ。それとあいつの眼鏡も」
それからしばらくおれたちは離ればなれになっていた。ユリシーズがヘロインとスノーを買わなくなったので会う機会がなくなったのだ。そんなことをする時間と金がお互いに惜しかった。おれたちはとにかく金が欲しかった。
エリックはというと、しばらくは被災者面で難民救助用のタダ飯を食っていたらしいが一度孤児院に連れていかれそうになって逃げ出したらしい。街でエリックを見つけると、奴は大抵ゴミ箱を漁っていた。食料を探しているのかと思ったらそうではなかった。
「あいつの聖書が見つからないんだ」
都心のモーテルは全て覗いたが見つからなかったらしい。ゴミ箱を散々漁ったのかエリックの手はすっかり汚くなっていた。
「もうどっかで燃えちまってるんじゃねえのか」
そう言っても奴は聞く耳を持たない。ゴミ箱に茶色い布表紙の本があると片っ端からめくっている。
「やめろよ。見つかりっこねえって」
一心不乱にゴミを漁り続ける姿が痛ましかった。こんな大都会の中でたった一冊の聖書なんて、見つかりっこないのに。
そんなエリックをよそにしておれたちの稼ぎは続いた。ユリシーズは最近ヘロインが本格的に要らなくなったらしい。嬉しいやら、殺意のせいだと思うと単純に喜べないやら。おかげでおれは商売のシマを都心の方へ少し広げている。
「おい、最近この薬薄くなったんじゃねえか?」
「気のせいだろ。あんたが中毒なんだよ」
地震のせいで街は荒廃し、麻薬が急激に売れるようになった。表向きは復興を目指しているが裏ではまさに売人天国だ。加えておれは麻薬に水増しする砂糖の量を前より増やしている。
こうして危険は金に換わる。この商売のうまみがそこにはある。地震が起こってから天国と地獄ははっきりと見えるようになった。
客は廃墟の奥に、静物のようにして溜まっている。元マンションだった裏通りなんかにも多い。どこかから一筋の光が差す暗い廃ビルで変な「におい」がしたら大体何人かいるんだ。
一歩入ればもう気は抜けない。悲鳴は大体当たり前に聞こえる。金に困った奴が誰かを襲って略奪しているのだ。あるいはただ錯乱しているだけなのか――
「坊や。こんなところにいちゃいけねえなあ」
――欲望を満たしたいだけなのか。
その日もおれはこの外見のためにナイフをひけらかしていた。随分とはったりも利くようになったと思う。それでも、おれは十二歳のガキにすぎなかった。
ジャンキーに殴られて倒れ、上にのしかかられた。容赦なくナイフで相手の腿を刺した。悲鳴が廃墟にこだまし、冷たくて臭い空気が震える。それでも敵は俺から離れない。次の瞬間ナイフをもぎ取られ、さすがに思考が途切れる。ジャンキーの顔はもはや人間の最果ての姿になっていた。振り上げられられた手に宿る死の光。異常な瞳孔の開き具合。
死にたくない。そう思った時、俺の肩にナイフは深々と振り下ろされた。
腹の底から頭のてっぺんまで全細胞が大声で叫んでいた。左肩が地面に縫いつけられ、大の男の拳が飛んでくる。衝撃で顔の骨が割れる。血の味が溢れる。おれは左腕で次の攻撃を何とか防ぐと、右手に触ったコンクリートの礫を投げつけて敵の顔を割った。
返り血が顔に飛び散るのも気にしないでナイフを抜いた。そのまま死ぬ気で何度も切りつける。脚。腹。胸。喉。おれはどんどん血を浴びる。
血が流れ続ける左肩の凄まじい激痛に耐え、ユリシーズのいる娼婦宿に向かいながらベンが受けた恐怖について考えた。
ベンもあんな風に襲われたんだろうか。あんな風に、誰の助けもない冷たい場所で、自分より絶対的に力のある……誰かに。
肩の傷を押さえていると、あいつの恐怖が流れ込んでくる。
誰も居ない廃墟の中で、自分よりずっと強い男が自分を殴る。この世のものとは思えない耐え難い痛み。やめて欲しいのに、助かりたいのにその兆しはどこにもない。
”明らかに自分は殺されてゆく”。
死の恐怖に理由なんてない。恐怖の前に意識は吹っ飛び、少年は泣き叫ぶ。
怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……
……ばたばたと暴れる身体。そして、逃げられないということ。
自分の運命にどうこう言える脳細胞なんかない。ただ、本当に死ぬところだった。だから心底、泣くほどの、怖さでいっぱいになった。
言っても仕方ないが怖い。怖くてたまらない。だけどおれは他の生き方なんか知らない。ユリシーズも、エリックも、ベンだって知らなかったろう。そんなものは誰も知らなかった。
「聖域の子供達」