聖域の子供達 その12

 昼間だというのに、都市部の車の往来はひどくまばらだった。太陽をゆっくり感じている暇があるほどに。この街は、こんなに静かな街だったろうか。いくつもいくつも分かれているコンクリートの分岐を眺めながら、この都市はやはりあの地震の時に死んだのだと思った。
「もう人は戻ってこないのかな」
 エリックは先を歩きながらおれの視線を追って町を見回す。人気を失い、様々な建物たちが元からの陰を残しながら日光に消毒されつつあった。さっぱりさと一体化した喪失感が街の上を漂っているようだ。
「だんだん、おれたちが住めない感じになってきてる」
「うん。もう空き缶も落ちてないしな」
 おれたちもそのうちここを出るのかな……エリックの言葉はおれのまるまる固まった思いの中に小さな針の穴を開ける。外界の空気もそこから入ってきて、おれは少しだが目が醒めた気分になった。
 未来が、おれの足元から先へ際限なく伸びていく。もうずっと感じていなかった感覚。

 おれたちは周りのあらゆる不幸に自由を奪われていた。未来を感じる自由もその一つだったのだろう。
「いつかおれたちはでっかい車に乗って、昔のここのようにやかましい町へ移っていくんだな。多分その先で待っているどんな不幸も、それがどんなに酷くても、今のここよりは明るい」
 復讐にとらわれている限りそんな未来のないことを知っていた。
 それでもいつかそれが叶えばいいという声が聞こえた気がした。


 ホームレスの連中が棲みつくのは駅か路上か公園と相場が決まっている。万人のために開かれた最後の場所だ。おれたちのような「家なし子」……いわゆるストリートキッズには孤児院とか養子っていう道もあるけれど、概してあまり明るい話は聞かない。
 都市の中央にある公園の、広場の隅でゴミ箱からあふれ出た残飯を烏と人間が漁っていた。人間の方は昨日も見かけた中年のホームレスだ。黒髪と白髪が半々のところに脂と垢が積もり積もっていてとにかく汚い。目やにがひどく、真っ黒で何もかもを呑み込みそうな双眸。
「おっちゃん」
 エリックが声をかけると、途端に男の眼は人間らしい明かりを取り戻した。おれにはそれがひどく印象的だった。おれが昨日見た呪わしい姿が瞳の光一つで嘘のように見えてくるから不思議だ。エリックが声をかけるとホームレスたちは皆どこか人間的な別の顔を見せた。エリック自身もおれたちの前では影をひそめていた昔のままの笑顔を惜しげもなく見せていた。
 数分後には公園中のホームレスたちにエリックのことが知れわたり、広場が汚いおこもたちの群集で埋め尽くされた。鼻が曲がりそうな臭さだ。おれだけが顔を歪めて鼻をつまむ。ホームレスたちの顔はエリックに対しては家族のように優しいが、おれを見るまなざしには異物を排除したい思いが見え隠れする。
 身構えていると、守るようにしてエリックの手が間に入った。
「こいつ、ボビーっていうんだ。おれの友達」
 ホームレスたちに向けられる暖かく凛としたまなざし。おれには「鼻つまむのやめなよ」と。
「大丈夫だよ。慣れるからさ」
 昔を思い出させるような屈託のない笑顔だった。おれはホームレスに馴染みたくないという思いが強かったが、その笑顔の前にどうしてか妥協させられてしまった。この笑顔は駄目だ。場の空気をゆるませてしまう。
 おれが素直に鼻をつまむのをやめるのを見ると、エリックは笑顔のままうなずきおれとホームレスたちの間に挟んでいた腕を降ろした。
「――ポールの爺さんはどこ? やっぱり体悪いの」
 ホームレスたちにとってエリックは自分たちの子供であると同時に”天使”であり、また”預言者”でもあった。
 何気ない台詞ひとつで十分だった。ホームレスたちは集団で互いに視線を交わしあいながら誰ともなしに道を開け、おれとエリックに彼らの望む道を示した。

 羽音の密集がおれの中で悲惨な感情を呼び起こす。開かれた道は公園の森の中へと続いていた。ホームレスたちの集落の、さらに隅の汚い場所に追いやられたその場所に、蝿の大群がそら恐ろしい音を立てて集まっている。
「死人に蝿が群がってる」
 もの言わぬ小さなビニールハウス。ホームレスたちがそれぞれ避けるように顔をそむける。
「一ヶ月くらい前から、集まってくるようになった。爺さんは選ばれたんだ」
 その場にいたホームレス全員が沈黙の中に逃げ込む。一切の説明を恐れ、拒否して。おれはそんな大人たちの姿をずっと見つめていた。きつく見開かれたおれの眼と対照的に、エリックの眼は伏し目がちでじっと諦観と痛みのあいだを彷徨っているようだった。

 いつもなら、エリックはどんな形であれ笑ってそれを許しただろう。
 いつもなら。
 人間は、いつまでも同じ姿であり続けることはない。
「もう、今年で最後にして」
 来年はもうやらない。
 エリックの小さな呟きを聞きつけたホームレスたちの一部がその言葉の意味に直面させられ、羊のようにまごつき始める。
 エリックは一人で蝿の群がるビニールハウスに向かって歩き出した。きれいな金髪と古ぼけたコートの上に幾重にも蝿が飛び交ったが、気にも留めていない。
「お前のせいだ」
 エリックが離れた途端に荒々しく腕を掴まれ、咎められた。
「お前のような奴があの子に近づいたから。あの子が穢れた。悪魔がエリックを誘惑して堕落させようとしてる」
 エリックガケガレテイクノハオマエノセイダ。
 どうしていいかわからなかった。悲鳴をあげる顔は限度を超えるとどうしてあんなにおぞましいのだろう。救い主を失いかけている彼らがおれをスケープゴートにして自分たちの都合のいい方へ逃げようとしているのはわかる、けど。
「何やってるんだよ」
 蝿の群れの中からエリックの声が飛んできた。ホームレスたちの動きが止まり、その間におれはどうにか掴みかかってきた腕を振り払った。
 ホームレスたちは見てはならないものを見てしまった。彼らの醜い行為を見るエリックのまなざしは、笑っていなかった。次の瞬間に彼が前後を忘れたような笑顔を見せても、それはおれだけに対してであって、決して自分たちに向けたものではないことを彼らは悟らざるをえなかった。
「ボビー。ポールの爺さんに会ってやってくれよ。ボビーが来たら爺さんもきっと喜ぶと思うよ」
 こうして言葉を発している今もエリックの周りには耐えがたい数の蝿たちが旋回を続けている。おれの意識化で鍵でもかかったのか足がすくんだ。あんな数の蝿が全身にとまって動き回ったりなんかしたら、常人は一時的にでも狂ってしまうんじゃないだろうか。
「蝿が多すぎる」
「怖がらなければ襲われないよ。息を止めて、両耳を塞いで。蝿はナイフも持ってないし、人も殴れない」
 なぜ微笑むことができるんだろう。あの場所で。エリックの吐いた息を嗅ぎつけて奴の顔に蝿がたかるのが見えた。エリックは自分の顔に蝿を自由に歩かせながら、とても自然な動作でおれに手を伸ばし微笑みかけてみせた。
「蝿を許せ」
 まっすぐにこっちを見ている人懐こい眼。短い静寂のなかで自分の呼気の温かさを感じた。
 ふと、あの場所までなら大丈夫だという気分になった。二・三深呼吸して最後に息を全部吐ききると空気が冷たくなって体の温かさだけが自分の生きている証明になった。
 おれは両耳を手で塞いでいつもの歩調で歩き出した。蝿の飛び交う世界へ。目の前を弾丸のように蝿が飛び回り、一匹が手の甲にとまっておれは蝿の大群の中で立ちすくんだ。手のひらの向こう側から死に至る狂気の羽音が聞こえる。
(蝿を許せ)
 目を閉じて手の甲をはいずる足たちの移動を許す。あの恐ろしい音を許す努力をする。
 目を開けて、もう一度いつもの歩調で歩き出した。最後に右手を伸ばして耳を開けエリックの手を掴むと、奴は一息に駆け出しておれをビニールハウスの中へ引っ張りこんだ。

 ビニールハウスの入り口が閉まった途端息が切れた。思いっきり息を吸いこんだら殺虫剤の臭いが鼻にまでたちこめてその場でむせ返った。
「やればできるじゃん」
「うるせえ――ゲホッ! あんな蝿、仲良くなろうなんて方がどうかしてる」
 逃げ遅れて殺虫剤の臭いにのた打ち回っている蝿を見て、エリックはそっと入り口のダンボールを開け蝿を逃がしてやった。おれはおれで狭苦しい上に薄暗いビニールハウスの中を見回し、床にできていた人間大のぼろ布の盛り上がりのところで目を止める。
 ぴくりともしない。
「爺さん、起きて。おれだよ。久しぶり」
 エリックが静かにその山を揺らすと、ぼろ布の下から痩せた白人の老人が黒ずんだ顔を出した。汚れているのではなくて地のところから血色を悪くしてしまっている。内臓を病んでいるに違いなかった。末期かもしれない。
 エリックの顔を見ても動じない表情。エリックは、神妙にその場に座っている。
「お前さんが来たということは、わしの命ももうないな」
「うん」
 ヘロイン売ってくれる奴、連れてきたよ。
 奴が言うとそれは当然の事実のように思えた。老人は皺だらけの骨ばった手を伸ばしてエリックの金髪をすく。
「ご苦労さん。天使殿」


 そこは空気も汚くて、臭くて、光もあまりなかったけれど、流れている時間だけはきれいだったと思う。
 ポールの爺さんは長いホームレス生活の果てに肝臓とすい臓が機能不全に陥り、この冬からとうとう起き上がれなくなった。そうしてこのビニールハウスで一人静かに死が来るのを待っている。本当ならもっと早く死んでいただろうに、生きることを諦めた爺さんの体の燃費は悪く、結果として彼を生き永らえさせる。
「ヘロインは、昔吸っていたんだがね。この生活になってから吸いたくても吸えんでやめちまった。茶色いのじゃなくて白いのが吸いたいんだ。純度の高いスマックを」
「体を慣らさないとゲロ吐くよ。爺さん」
 おれは持ってきていた”茶色のヘロイン”を五ミリグラムほど注射器の中に入れ、水で溶かして爺さんの静脈に注射した。ユリシーズなんかは針の痕を嫌って鼻から吸いこんでいたが、この爺さんは起き上がる気力さえないように見えたからだ。ちなみに”スマック”というのはヘロインの俗称の一つ。
「最初だからサービスしとくよ。――調子はどう」
「ああ。悪くなってきた。悪くなってきたよ」
 冷たい汗をかく爺さんの手をエリックと片方ずつ握りしめながら、自分は一体何をしているのだろうと思っていた。爺さんの手が哀しいくらいぬるい。
「ボビー、何で調子悪くなっちゃうんだよ?」
「ヘロインは何回かやらないと体が馴染まない。爺さんみたいな重症患者がやったら、寿命が縮む」
 爺さんはそれでもヘロインを打ってくれとおれに懇願した。イヴまでにあの快感を味わえるようにして欲しい。”家族に会いたい”でもなく、”心残りをどうにかしたい”でもなく、それだけが望み。
 おれはその背景について一切を訊かなかった。

 多分、イヴまでにあと二回くらいは来なければならないだろう。爺さんの体の中に薬への耐性をつけてやらなければならない。それが爺さんの望みをかなえる最低のラインだった。
「坊や。自分のしたことを罪に思っているのか」
 ポールの爺さんは中毒症状に苦しみながら、おれに罪のないことを何度も語りかけた。
「罪でもそうじゃなくても、おれはやる」
 明らかに死んでいく人間と初めて関わりを持った。イヴまであと六日。


To Be Continued...


「聖域の子供達」



Copyright © 1999-2009 桔梗鈴 All rights reserved.
Thank you