聖域の子供達 その11

 束の間の安寧を過ぎて世界が目覚めると、街は今日も荒涼としてジングルベルを奏で始める。あの地震からもう数ヶ月経っているのだ。それは現場にいるおれたちにだけ嘘のような話で、外の人間たちにとってはとっくに認識され、さらに忘れ始められている事実でもある。
 悪夢は関係の無い人間からは瞬発的に忘れ去られていく。廃墟を洗った何万人もの血も。その血を食料にして増える蝿も。弔いのために放たれた大量の白い鳩も。現場に残っているおれたちの中でだけ、まだ血が消えていかない。だから蝿も鳩もおびただしく廃墟の空を舞い、消えていかない。


 その日の夜におれに付き添われて帰ってきたエリックを待っていたのは、ゴーグとネスの手料理とユリシーズの平手打ちだった。ユリシーズはまったく挨拶代わりに人をひっぱたく。子供の非力な腕とはいえ要領は得ているし、まるで手を抜かないから見ている側は時々舌を巻いてしまうほどだ。今回もやっぱり本気の一発が中身の詰まった音とともにエリックの頬に炸裂したわけで。
「帰ってきたらいっぺんこうやってひっぱたいてやろうと思ってたのよ。せいせいしたわ」
 エリックは殴られたまま力なくうなだれて、「ごめん」と言っただけだった。やはりユリシーズに対しても引け目があったのだろう。ユリシーズはユリシーズでエリックの反応に気まずさを覚えたのかさっさとエリックに背を向けて遠ざかってしまう。
「別に怒ってやったんじゃないわよ、グズね。汚いから洗ってくれば!」
 声とほぼ同時にユリシーズは石鹸を投げつけてきた。いつもと同じ展開だ。さすがにエリックもきょとんとして、それから彼女の思いに気づいたらしく「ありがとう」といつものように返した。まったく素直じゃない。おれとエリックは顔を見合わせて無言で笑う。ユリシーズはこういう時おれたちが笑っているのを知っているからさっさと部屋を出てトイレにでも行ってしまうのだ。
「エリック、さっさと体洗ってこいよ」
「うん」
 ユリシーズだってトイレ程度の時間が過ぎたらさっさと戻ってくるだろう。おれはエリックがシャワーを浴びている間に手料理を並べて、少しの間だけ部屋を空けておいてやることにした。大事なものを取りにいく少しの間だけ。
 ユリシーズはその間にテーブルに戻ってきてシャワーを浴びているエリックと壁越しに喋っていたらしい。一人テーブルに頬杖をついてけだるそうにしている姿がありありと目に浮かんだ。


「ねえ」
「ん? 何だよユリシーズ」
「あんた何で逃げたの」
「……」
「あんたがいない間さあ、いろいろと大変だったわけよ。こっちは」
「……ごめん」
「だからさ、謝らなくていいの。何で逃げたの」
「……おれがいたら迷惑になるかなあと思って」
「はあ?」
「なんかさー、お前らのこと励ますどころか足引っ張りそうだった。しばらく笑ったりとかどうしてもできなくて、……辛くてさあ」
「別に、あんたの世話になるほど弱かないわよ。帰ってこないほうがよかったんじゃない」
「ごめん」
「だから違うって言ってるでしょ? ムカつくなあもう!」
「ごめん」
「今度それ言ったらあんたとは絶交だからね! ムカつくのよ。ムカついてるときに「ごめん」って言われるのが余計ムカつくわ。タイミングがなってないわ。ああもう!」

「落ち着いた?」
「別にいつも通りよ」
「いつもごめんな」

「エリック! 壁のとこにトリートメントのチューブあるのわかる」
「……あるね」
「使えば」
「ありがとう」
「あんたみたいな馬鹿にまともに相手した私が馬鹿だったわ」
「こういうのってどんくらい使っていいんだ?」
「説明書き読みなさいよ」
「読めないもんおれ」
「ポップコーン一粒ぶんくらいよ。つけたら五十数えてゆすぐの」

「やっぱりね、あんたみたいな奴相手にしてると、あの時ベンを止めておけばよかったって思うわ。ベンだったら私の代わりに適当に相手とかしてくれたもの」
「……」
 あの時って?
「ベンがあの豚と話してたときよ。あの豚がベンを見て『この子にしよう』って言ってたの。あんたたちどっか行ってたから見てないでしょう? でも私は、ずっとあそこにいた。
 見てないで営業妨害でもしてやればよかったのよね。でも私あの時もムカついてたわ。こういう時ばっかり要領が良くて、それなのに嫌味ったらしいくらい暗い顔してるあいつのこと、話したくなかったし顔も見たくなかった。いなくなってもいいやとか思ってたわ。戻ってくると思ってたから」
「……」
「男ってみんな勝手なのよね。ボビーもあんたもベンも。まるで私が全部悪いみたいな感じするじゃない……」


 おれが戻ってきた時、ユリシーズの瞳はうんと遠くを見つめてその主の意識を遠くへ飛ばしていた。おれが声をかけるとそれは一瞬にして影をひそめ、そこにはいつものユリシーズが戻ってきていた。
「エリックは?」
「頭洗うのに手間取ってるみたいね」
 何持ってきたのというユリシーズの問いにおれはそっと一冊の本を掲げて、それをテーブルの一角に置いた。
「やっと全員揃ったな」
 血の染みついた茶色い布表紙の聖書。コンドームは一個残して全部捨てた。世界にたった一つしかない聖書だ。
 もう随分長いこと離ればなれになっていたおれたち”四人”が久々に揃ったのは、イヴを一週間後に控えたある日のことだった。


「ねえ。何で人って食べる前にお祈りするのかしら。何も言わないで食べることの方が不自然なくらいに」
 まだ湯気の上ってるゴーグ特製のグラタン。あるだけ野菜を入れたサラダ。少ししなびてるバターロール。ポン引きと用心棒の家でしか暖かい手料理を食べられないおれたち。
 その日の夕食はなぜかとても賑やかで、おれたちの誰もが自らを奮い立たせてはその場が冷めないように話題を掻き回していた。
「さあ? 意味なんてねえんじゃねえの?」
「違う違う。そのメシを作ってくれた人に感謝するんだよー。あと目の前に食えるメシがある偶然に」
「何きばったこと言ってんだよエリックのくせに」
 エリックはこういう時本当によく笑う。もともとすきっ歯なのを気にもしないで照れ笑いもすればげらげら笑うこともある。時々食事中に笑い過ぎて歯の間から食べたものが飛んでくることだってあるのだ。そうなったらユリシーズまでげらげら笑いだす。
「あんたさあ、前にホウレン草のソテー食べてたとき最悪だったわよね」
「おれの顔に被弾したアレかよ」
「そうそうボビーの顔に緑色の物体がね。どういう圧力で吹いたらあんな風に凄いいきおいで出るのかって」
「しょうがないよここだけ遮るもんがないわけだから。だから口ん中のすべての圧力がここに集中」
 話が終わらないうちからみんな笑うのをこらえている。鼻で笑う音が大量に食卓を埋め尽くす。
「やってみようか」
「やめとけよきたねえから」
「私ボビーにならやっちゃってかまわないけど」
 エリックが鼻をつまんで思いっきり口の中に力を入れると、いきなりすきっ歯のところにグラタンのマカロニが突出して詰まり中途半端に口から飛び出たまま取れなくなった。むせかえるエリックをよそにおれとユリシーズは腹を抱えて死ぬほど大笑いし、そのまま何だかんだと言ってはひたすら笑いつづけておれたちの夜は暮れていったのだ。ベンの聖書が視線をやれば届く場所にあることが大事だった。ベンが静かに座っていてくれればいい。血まみれでも構わなかった。
「なあ、クリスマスもやろうな、こういうの」
「あたしはイヴは仕事だってば」
「おれもイヴは公園のみんなの所に行かなきゃ」
「だからクリスマスだよ。二十五日だけはちゃんと集まろうぜ……な?」
 二十四日に集まれないのは、しょうがない。ベンジャミンもそれはわかっていると思うから許してくれるだろう。そのかわり二十五日には必ず全員で集まってパーティーをすることをおれはユリシーズとエリックに無理やり約束させた。
「せっかくの掻き入れ時なのに」
「金より大事なものがあるってこと忘れてどうすんだよ」
 金をなりふり構わず欲しがるユリシーズもさすがに今回はあっさりと折れた。「しょうがないわね」とか言っておきながら実は二十五日の予約は一つも入れていないあたり、ユリシーズらしい。
「エリックも来いよな」
「うん……」
 エリックの返事は話の内容が内容だけに、しぼんでいた。返事の後に「イヴの日に死ぬ人の葬式とかがあるんだけど」という台詞が続き、不意に口をつぐんでうつむいてしまう。やっぱりこの辺で口が重くなってしまうところは変わっていないのだ。
「エリック」
 きちんと「行く」と言わせる前に横槍が入った。
「イヴに死ぬ人って何よ」
 自分だけ知らない秘密があるということに我慢できるほどユリシーズは大人ではなかったし、おれたち三人の仲も今更何かを隠し立てできるほど浅いものではなくなっていた。


 数時間後、部屋の中でゴーグとネスのベッドを借りて寝ているのはおれとエリックだけになってしまった。ユリシーズは朝まで仕事だ。当然この二つのベッドの主も。朝が来てベッドを追い出されるまでにおれとエリックは眠っておかなければならない。
 数時間前とはうって変わって暗鬱とした気分のおれがそこにはいた。同じ部屋でまだエリックが電気を消したまま起きていたが、奴と話をするくらいなら布団の縫い目でも数えていた方がましだ。
「ボビー? もう寝た?」
「……」
 エリックに背を向けて布団にくるまり、無視を決めこむ。虫の居所が悪くてとても寝られたものではなかった。いつかベンに聞いた話だと、人間が本当に怒るのはその人間が大切だからという。今は、おれもそう思いたい。
 あの後ホームレスたちの”イヴの儀式”の話を聞いたユリシーズは開口一番彼らのことを「イカれてる」と切り捨てた。
「カルトな宗教でもやってんじゃないの? やだやだ。そこまで落ちぶれても本当のことに気づかないのかしら。そういうのを逆恨みっていうのよ。そうやってどっかの馬鹿が勝手に落ち込むのを豚みたいににやけながら待ってるんじゃないの」
 ユリシーズはおれ以上に冷徹な論理でホームレスたちの側面を暴き、話を聞いていたエリックをすっかり落ち込ませた。
「だから優しい人たちなんだってば……」
「小者って言うのよそれは。気分でしか慈善事業のできない偽善者。ずるくて汚くて醜くて糞みたいな臭いがする」
 エリックが沈黙して身を守っているところをユリシーズは見ない。人の目を見ないのは誰かをこき下ろす時の彼女の悪い癖だ。だからエリックが耐えかねて目の色を変えたところも彼女は見なかった。おれの時にはあった一線を、ユリシーズはいともあっさりと踏み越えた。
「ユリシーズには関係ないだろ!」
 エリックが声を荒げたのが今度はユリシーズの癪にさわってしまう。驚きはしたもののそれで引き下がるユリシーズではない。
「……な、何よ! 私の言うことにどこか間違いでもあったっていうの?」
「他人事みたいにめちゃくちゃに言われたら普通嫌に決まってるだろ! 面と向かって言ったこともないくせに。
 何でユリシーズはいちいち人の悪いところばかり責めるんだよ。人間だから良いところもあれば悪いところもあって当たり前なのに、ユリシーズはいっつもいっつも責めることしかできないのな!」
「何ですって……!」
 怒りは人を見失わせる。自分を見失った人間は自らの一番暗くて醜い部分を、何のためらいもなく露出させる。
「エリックのくせに生意気なこと言ってんじゃないわよ! クズなものをクズって言って何が悪いの!?」
「お前人のこと言えるのかよ!? 金が欲しいってだけで自分の体売ってさ、挙句の果てにクスリ欲しがって、ワケわかんねえことで逆ギレしてても自覚ねえしさ。おれに言わせりゃお前が最低っていうんだよそれは。
 自分のことさしおいて人のことクズなんて言うなよ! クズって言ったらそいつがクズなんだぞ!!」
 凶器を投げ合って殺し合う大人のくだらない喧嘩。おれは二人が醜く変形していくのを見ながら、ベンの聖書を見る。

 もうすぐイヴなのになあ、ベン。
 しばらくの間思考がどこかへ逸れていた。おれたちは子供と呼ぶには、もうあまりにもたくさんの暗いものを見過ぎていた。
『裁いてはいけません。裁かれないためです』
 テーブルの上のグラタン皿を思いきりひっつかみ、床に投げつけて割っていた。
 陶器の皿が割れる大きな音が部屋中に響きわたりエリックとユリシーズは驚いて口論をやめる。
「やめろよ。少なくとも、ここでやるな。ベンの前で」
 怒りを押し殺した喉が震える。怒鳴ったって何にもならない。こんな時こそ力を合わせなきゃいけないのに、どうしておれたち三人はこうもゆき違ってしまうんだろう。
 互いのことがわからなくなってきていた。ベンが殺されたあの日からおれたちの暗闇はより深いものになって、しかもそれは三人それぞれに、何から何まで違う。おれにエリックやユリシーズの暗闇が理解できないように。おれの暗闇は、今感じたこの冷たさは、この二人にはわからない。


 二人の間に決定的な和解が見られないまま、翌日おれはエリックに連れられてゴーグとネスの家を出た。エリックもユリシーズもおれに対しては話しかけるが、互いに今は仲直りする気はないらしい。今おれがエリックと行動を共にしているのはエリックがヘロインを使う相手を見に行くためだ。この前聞いた話の通りなら”アラン”か”ポールの爺さん”。
「ボビー……まだ怒ってる?」
「別に」
 エリックの苦々しい視線を見ればおれの顔がお世辞にも機嫌が良い風に見えないのは明らかだ。イヴが近いのに。あと一週間もないというのに……
 ……いや、それは、イヴとは関係のないことなのかもしれない。地に湧いて消えていかない焦燥感と不安感。辺りの空を見回してみたが、冬の晴天のなかには何もなかった。蒼い。蒼過ぎて黒い空の下で、太陽が偽りなく世界を照らす。
「エリック、お前本当にヘロインそいつに使うのか?」
「うん、ポールの爺さんが死ぬ前にもう一度やりたいって」
「”アラン”って奴じゃなくて?」
「アランは多分違う。イヴには死なないよ」
 エリックは最初から決定された予定をそのまま淡々と俺に喋っているのだろうか。時々その瞳は水晶よりも強く透き通って、人間から遠くはなれた輝きを帯びているような気がする。きれいに洗ったばかりの金髪の上に降る光の輪を見てホームレスたちがエリックを人間扱いしなかった理由も、どことなくわかる気がした。
「ボビーもやっぱり怖いかな? おれたちの暮らしのこと。……やっぱり怖いよな。何月何日に誰が死ぬなんてわかったら」
「え?」
「だからさ、ホームレスのおっちゃんたちの暮らしのこと」
 理解されなくても、しょうがないのかもしれない。
 太陽の光をいっぱいに浴びて、少しうつむきながら歩くエリックの姿は半分見慣れているような、半分生まれつきの異邦人のようなどこか掴みづらい雰囲気を醸し出している。
「人間ってさー、不便だよな。理解しないと友達になれないとか、やっぱり親しいやつにはわかってほしいとか、親しいやつが自分にはわからないことをしてるから怖いとか、死ぬまで一生そんなことで悩んでるのかな」
「昨日のこと言ってるのかよ」
 死ぬことを”しょうがない”なんて言ってる奴の気持ちなんかわかりたくないと言うと、エリックは少し寂しそうに微笑んだ。
「うん」
 まただ。エリックは本当につらいことを考えると、それを全部笑顔の裏側へもっていって、自分の心に沈めてしまう。その心のはたらきは本当のところおれたちに干渉する余地など与えてはくれないのだ。
「黙るなよ」
 ありふれたおれの言葉に、エリックはなぜか少し顔を歪めた。何かを封じ込めていることを見抜かれた顔。
「何か言いたいことあるんだろ。全部言えよ。おれのこと信じてるのなら」
 互いに何かを隠しあう孤独。そういえばベンも、いろんなことをおれに隠していたっけ。それを今ではとても寂しく思う。
 エリックはおれの目から何を感じとったのかもっと寂しそうな顔で微笑んで、静かに首を横に振った。

「本当に本音を言うならさ」
 わかり合えなくても友達でいてほしい。
「それができなくても、友達でいようとすることを、諦めないで欲しい。
 それじゃだめか?」
 ――今は言えなくても、いつか必ず本当のことを言うから。
 エリックの目はどんな言葉よりも雄弁におれに訴えかけてくる。少しの憂鬱と、痛みを秘めた悲しい目だった。おれはこの目を前にもどこかで見たことがある。
(そういうことさ)
 聖書にどんなことが書いてあるのか、教えてはくれなかった。あの時のベンも……。

「ごめんな」
「いいよ。別に。お前が好きで黙ってるんじゃないってのはわかったよ」
 機嫌が悪くなるのはそいつが大切だからというベンの言葉を無言でガムのように何度も噛みしめた。ゆうべの機嫌の悪さと比較すれば、耐えられない虫の悪さじゃない。
「早くホームレスの連中ん所連れてけよ。言っとくけどおれはあいつら嫌いだからな。向こうにも恨まれてるし」
 エリックが複雑そうに、でも気をとり直して明るく笑う。
「だから優しいおっちゃんたちなんだってば。大丈夫だよ」
「知るか」
 イヴまであと一週間になって、急に町から鳩と蝿が消えた。正確にはそれらはまだ廃墟を覆い尽くすほどいるというのにだ。おれたちを避けるように逃げ惑っているのかもしれない。白日の晴天の下で町を歩くおれとエリックの先には、硬くざらついたコンクリートの分岐が延々と伸びている。


「聖域の子供達」


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