空港の到着ゲートの窓を汚れた雨が濡らしている。
元はといえば雨が汚れているのではなく、窓にこびりついた粉塵を雨が弱い勢力で洗い流しているのだが、この世界一清潔な日本という国の中ではそれが落ち着くもののように片倉大介には見えた。つくづく小さな汚れが大層な扱いになる国に彼は生まれた。こうして外国に長期滞在した経験でもなければ、大方の日本人はそれに気づきもしないで人生を終えてゆくのだろう。
汚れた雨と薄暗い飛行場の風景が重なる中へ、不摂生が滲み出そうな二十代後半の男の顔が映った。日本人男性にしては彫りが深い顔立ち。薄汚いのに目ばかりぎらぎら光っている。どう見ても犯罪者の顔だ。
ベルトコンベアの上から自分のボストンバッグを拾ってモノレール行きのゲートに向かうと、迎えの人ごみの中に懐かしい顔が一人小さく手を振って待っていた。大介はそれまでぼんやりしていた顔を人好きのする笑顔へと変えさせ、歩きながら懐かしい顔と合流してゲートを出た。
「お久しぶり。もっと早く連絡くれれば車で送ったのに」
「そこまで世話になれないよ。君こそ本当に空港まで来てくれるとは思わなかった」
小峰由加里には快活なペールイエローのスーツと薄いターコイズのスカーフが似合っていた。もっとも、化粧のほうは時代を無視したナチュラル・メイクとレンズの大きい眼鏡という風に決まっている。多分十年か二十年すると時代が彼女のファッションに追いついてくるのだろうなという評価を大介はいつも彼女に与えている。
「美しくなった。君は本当に美しくなったな」
複雑そうに微笑みに影を落とす大介の前で由加里は二十代後半の顔を微笑みにかたちどった。どこまでもオープンで理知的という印象を与えておきながら、たまに見せる微笑がぞっとするほど乾いていて深い。
「あなた、アメリカでもいろんな人に同じこと言ってるでしょ」
「ばれたか」
「うん、あなたらしい。あなた死ぬまでに絶対一回は刺されるわね。光源氏と同じタイプだもの」
「あまり好意的な解釈をされていない気がするが、気のせいだろうか。光源氏はいつも真剣に女性を愛しているよ」
「そうよ。一番に愛する対象が百人も二百人もいるのよ。真剣にそういうちゃらんぽらんなことができるの。一番たちが悪いわ」
それとも、私の父のせい?
一人相撲で傷ついた顔になりながら由加里は早歩きに歩く。大介は歩速を合わせながら由加里を見下ろし、やがて無言で首を横に振った。
「父のせいであなたの生き様が変わってしまったのなら、娘として代わりに謝るわ」
「いや、それは由加里ちゃんの勝手な誤解だ。俺は君たち父娘に何も傷つけられてなんかいない」
「そう」
理知的に言葉を続けるには由加里はまだ少し青かった。彼女が言葉を返すまでに、群衆にのって数メートルの距離を必要とした。
「父が逮捕されたときのニュースは見た?」
「いや」
「うん、そうね。すぐに表に出なくなってしまったから。今のところ被害を受けたと立件できたのは三件だけ。実際には十倍以上の人間が父の被害に遭ったらしいけど、困ったもんだわ」
由加里の声には感情の起伏が乏しい。事実を整理し、意図的に感情をコントロールしようとしているのが大介にはわかった。そうやって踏み込まなくてもいい場所まで毅然と踏み込んでゆく。
「あなたがここまで来てくれたってことは、確定していいのね?」
「ああ。いいよ」
「父と関係を持った?」
「持った。俺は当時未成年だった」
「襲われたの?」
「多少暴力的ではあった。でも最初だけだ」
「じゃああなたが私の前に現れたとき、もう、そうだったの?」
「うん」
プラットフォームに静かに滑り込んできたモノレールの表面には、いくつもの雨粒がステンレスの外装に汚れた筋を引いていた。由加里の顔は無表情に固まって、軋んで悲鳴をあげそうな現実を制そうとする。
「俺は百合雄さんの愛人だった」
大介は由加里の父の名を懐かしい声で呼んだ。由加里はモノレールに乗り込む前に大きくため息をつくとぼんやり視線をあげ、遠い過去の人物に向かって「うそつき」と、小さくつぶやいた。
「みんなそう言うのよ。訴えなかった人はみんな、父を愛していたって。最初のときの致命的な錯誤をみんな踏み潰していくの。……あなたは父と似てる。師匠と弟子みたいだわ。愛しているといいながら取り返しのつかないことを次々とやらかしていくのよ」
「百合雄さんは君を一番愛していたよ」
「やめて。今は聞きたくない」
都合の悪い話を振り切るときの残酷な声の響きに、大介は由加里の血筋を垣間見る。由加里は彼女の父である百合雄によく似ていた。外見ではなく、人に背を向けたときの視線や口調が同じ残酷さを醸しているのだ。昔からその身勝手さと強さに憧れていた。大介にとって小峰由加里という女性は、ただ不倫相手の娘というだけにとどまらず、その父と並んで崇拝の対象だった。
大介が由加里と出会ったのは彼が高校三年、由加里が高校二年のときの春だった。当時彼がちょくちょく出入りしていた大学の研究室の前で由加里が立ち往生していたのがきっかけだ。由加里は最初大介を見たとき、私服姿の彼を大学生だと勘違いしていた。
──こんにちは。小峰教授はいらっしゃいますか?
はきはきした口調で、セーラー服にポニーテールのままこちらを見上げる目が芯の強さを感じさせた。大介がかすかな鼓動を感じながら相手の不在を告げると、いたずらっぽい微笑みを浮かべて父の職場を覗いてもいいだろうかと言ってきた。彼女が近くに駆け寄ってきたとき、空気がふわりと動いて男物のオーデコロンの香りが鼻をくすぐった。
他の男なら由加里の後ろに男の幻影を見ただろうが、大介は経験からそれが彼女の父親の使う香りだと知っていた。大介が大学生に見えたのは必ずしもその体格の良さや声の低さからだけではなかっただろう。年齢に似つかわしくない妖美を含んだ憂鬱が、男性的な彫りの深い顔立ちから始終漂っており、それが同性異性の別を問わず相手をしたたかに酔わせた。
──君、小峰教授の娘さん?
研究室の中を歩きまわりながらこちらを向いた由加里の目の中に、大介への疑惑はかけらもなかった。彼女は笑いながらうなずき返し、「偵察に来たの」と弾む声で言った。
大介は当時彼女の父親の百合雄と不倫関係にあった。少しの沈黙の後、彼は由加里の前で苦笑する。そんな世界の裏側にあるような暗い愛を彼女が知る必要はないと本気で思っていた。実際には一つしか歳が違わないにも関わらず、二人の間には正常な世界と異常な世界の境目が深く横たわっていた。
「Credo」