Credo その2

 予約を入れたユースホステルで一泊すると、大介は次の日の朝もロビーの窓に汚れた雨粒を見ることになった。下り模様の天気はなかなか良くならない。朝からやや肌寒く、大介は重ね着したシャツの上に昨日と同じジャケットを羽織った。
 テレビから流れてくる日本語や、朝食に当然のように出てくる海苔や納豆や醤油が懐かしくてたまらなかった。同じ関東圏に弟が居を構えているが、連絡を入れるつもりはない。このままユースホステルで連泊した後、用事が済み次第米国へとんぼ返りする予定だ。おりしも弟は新婚で独立したばかりだった。
 財布の中には、米国に残してきた妻と一歳になる娘の写真が入っている。
 罪人が家庭を持つことで、また子を儲けることで、罪は加速度的に重なりを帯びたものへと変わってゆく。独り身の人間が犯す罪と妻子ある人間が犯す罪とではまるで桁がちがう。なのに世界は道徳など遥かに超越した場所で男に子を授け、人生には罪悪が立体的かつ自然芸術的に構築されてゆくのである。
 由加里はその日も車に乗って大介を迎えに来た。彼女は現在通訳や翻訳を仕事にしているため、比較的スケジュールの自由がきくのだという。大介は彼女の車の助手席に座って数年ぶりの日本の街並みを眺め、彼女と話をしながら警察へと向かった。
「その後、君のほうはどうだい。ステディな彼氏はできたかい?」
「全然! 頑張ってるんだけどねえ。ちょっとエンジンふかして喋ると、もう駄目ね。みんなやりこめられたみたいに感じるらしくて機嫌悪くなるわ」
「瞼の裏に浮かぶようだ。あと十年遅く生まれていたら君は才媛として引く手あまただったんだろうがなあ。生まれてきた時代が早すぎたよ」
「そうかな。──いつの時代でも、才媛とか女流とか女傑ってつく人に必要なのは母性かコケティッシュさよ。知性と一緒にどっちかで優れていないとのし上がれない。男社会をどうこう言う気はないけどやっぱり人類の半分には好かれたほうが得ね。外見はどうにでもなるけど、中身に色気が無いから話してるとすぐバレちゃうわ」
 信号待ちでハンドルに指を遊ばせながら由加里はワイパー越しにくすんだ街並みを眺めた。彼女には男特有の観念的な議論についてゆけるだけの知性と弁力があった──惜しむらくは、男の側が観念的議論の時間に彼女が割り入ってくることを拒むことだった。女の姿をして弁舌の内容が完全に男性的なのできまりが悪くなってしまうのだ。
「これ以上ロマンチックな女はいないと思うんだけどなぁ」
「愛憎差し引いても男としてはやっぱりレアリストな女性のほうが安心するもんさ。完全に同じレベルで『愛とは』『ポスト・モダン的友情とは』なんて議論できる女性だと、逆に地に足がつかなくて不安になる」
「最近の男の頭は軟弱すぎるわよ」
「心配しなくても君は十分可愛いよ。あとはそうだな、君のその知性を笑って許してくれる、器のでかい男を探すことだね」
 由加里は眼鏡の奥の目を細めながら肩をすくめて苦笑した。こうしたやりとりは学生時代に出会った頃から変わらない。
「そうね。あなたみたいに、そこそこ頭が良くてプライドレスな人がいいわ」
「俺は結構プライド高いよ」
「そう? じゃあそこそこ頭がよくて優しい人。あらどうしましょ。陳腐なリクエストになっちゃった」
「いっそアメリカ人とかフランス人とかどうだい。日本好きで悪くないのがいるぜ」
「個人主義の国か。考えとくわ」
 信号の色が変わるのに合わせてパンプスがアクセルを踏み込んだ。大介はハンドルを握る由加里の華奢な腕を眺めながら、米国の左ハンドルの話など他愛もない話題で目的地までの時間を潰す。二人とも煙草を吸わないたちだったので車内にはラジオから七十年代の洋楽ばかりが流れ、窓の雨の色と合わせて二人の間に哀愁めいた雰囲気を漂わせた。
「そっちのほうはどう? もう何年もご無沙汰だったけど」
「あっちで結婚して永住権をとった。娘も一人いる」
「あ、そうなんだ。おめでとう」
 自然な微笑を向けたあと、由加里の顔は急に水気をなくしてややしおれた。大介が憂いを含んだ顔で彼女を見返すと、彼女は路面に目をやったまままた遠くへと思いを馳せているようだった。
「奥さんは、知ってるの? あなたのこと」
「バイだってことは知ってる。今回の旅は、仕事だと言ってある」
「ふーん」
 窓の外の雨はけぶるような霧雨に変わっていた。ラジオの曲がフェードアウトしてDJのトークに繋ぐまでの間が、静かで、二人はシフトレバー越しに小さく息を潜めていた。だんだん悲しくなってくる息遣いだった。
「なんか、フォークが聴きたいな。貧乏フォーク」
「そうだね」

「ねえ」
「ん?」
「ホテル行こうか? もう全部すっ飛ばしてさ。このままどっか安いホテルつけて夜まで。それでダラダラ朝まで。やりまくろうか。太陽が黄色くなるってやつ、ちょっと見てみたい気もするわ」
 引き寄せるような透き通った空気の中で大介の顔が苦しげに強張った。体は動かない。たったひとつ腿の上でわずかに動いた男の指先が彼女を求めているようで、由加里がおかしそうに声をたてて笑った。笑っているうちに彼女の顔はみるみる赤くなり、唇を噛みながら泣き笑いの表情に皺を寄せた。
「いいじゃないそれぐらい爛れたって。母娘ならともかく、父親と娘両方と寝られるなんてちょっとありえない偉業よ。あなたそっちのほうも凄そうだもの。結婚する前にも随分たくさんの人と寝たんでしょうね。それとも結婚してからも誰かと寝てるの? うちの父みたいに?」
「俺は君とはやらない」
「どうしてよ。どうして大学教授の中年親父とはやれて私とはやれないの。だってずるいわよ。あなただけ平和な家庭持って幸せになろうだなんて、認めない。私にはあなたの家庭を破壊していい権利があるわ!」
 わめきながら、由加里の体はハンドルを切り違えることもアクセルを踏みこみすぎることもなかった。大介が黙っていると彼女の顔は怒ったようにして黙りこくった。やがてその全身が運転姿勢を保ったまま震え、感情の波に耐えながらか細い声をあげた。
「もうどうだっていいじゃない。忘れさせてよ」
「由加里ちゃん」
「別に本気であなたの家庭を壊す気なんかないわよ。ただ、めちゃめちゃになりたいの。めちゃめちゃにしてほしいの……」
 ──自分にとって、一番の禁忌を超えて。世界は裏返って自分に暗い悦びを与えるのだ。そうして愛する人たちと一緒に愛憎の坂を転げ落ちてゆきたい。
 車は速度を落とし、路脇に寄せられて止まる。大介の前で由加里はハンドルにしがみついてうなだれ、白い首筋を細かく揺らしていた。助手席から抱くこともできる距離だったが大介は彼女を抱かず、代わりに彼女の肩に手を置いた。由加里の肩がびくりと震えて跳ね上がった。
「俺は、君とはしない。多分結婚する前でもしなかった。君は……俺が何があってもそういう行為はしないって決めた、たった一人の人だ。だから」
 大介の声が詰まって、あろうことかひどくうわずっていた。真っ赤になった顔をハンドルに押しつけて隠す由加里の前で大介の顔も窒息しそうに赤くなっていた。由加里の肩に乗せた大きな掌が汗をかいて熱く湿っていた。
「だから。……そういう無茶なことは、考えない……でほしい」
 不器用な沈黙のあと、大介の手は由加里の肩からこわごわと引いていった。霧雨がガラスを濡らす車の中で二人ともしばらく固まったまま動けなかった。


 ──なんだ、大学生じゃなくて高校生だったんだ。それなら早く言ってくれればよかったのに。
 大介と由加里は初めて出会ったその日に大学前の喫茶店で一緒にお茶を飲んだ。窓ぎわで日差しに包まれながらアイスレモンティーのストローを咥える由加里に対し、大介はホットティーのカップを口につけながらいささか堅苦しい正義心を発揮して無骨な物言いをしたものだ。
 ──由加里ちゃん。あの、初対面で言うのもなんだけどさ、女の子がその辺で知り合った男を誘ってほいほいお茶しちゃうのは俺正直どうかと思うんだが……。
 ──別にいいじゃないですか。減らないし。大介さんは女の子に社交するなって言いたいんですか。
 ──いや、そうじゃないんだけど……由加里ちゃんがそのつもりじゃなくてもお父さんはそれ見たら泣くんではないかと。俺としては、どうも、それはいかんのではないかと。
 ──考え方が古いですよ。残念だわ。父が見込んだ人だっていうからもう少しフレキシブルな人かと思ってたのに。
 由加里はあっさりと続けた。”今この世界を支配してる考え方だって、十年後にはどう変化しているかわからないですよ。近代十年間を振り返ってもそれは確かなことです。だからもったいないわ。新しい価値観を受け入れないなんて”。
 真珠色のストローから口を放してきらりとこちらを見つめる瞳に、大介は目から鱗を落とされる思いがした。それは彼女の父親とは少し違うやり方で、深い奈落の底にあった大介の心を思いがけなく勇気づけた。
 同性相手で、しかも不倫という二重のスティグマを背負っていた青年の中に、当時光は見出されていなかった。大介は小峰百合雄への愛のために世界に背を向けた。何度も中年男のもとに通いつめては汚れきった体をさらに差し出し、男の脂肪のついた腹に顔をうずめて生きる許可を請う。
 同性に性の捌け口を求める出来損ない。それだけで説明しきれない、深淵を覗き込むような孤独と根本的な人間への絶望感。全裸にされて手足を縛られ、目隠しをされながら鞭打たれ、生きていてごめんなさいと泣きじゃくった。もっと泣いてしまえ、全部吐き出してしまえと命令する中年男の優しい声が菩薩のようだった。
 ──苦しかっただろう。これまでずっと優秀で、正常であることを求められ続けてきて。さあ、全てを僕にゆだねてそこに四つん這いになりなさい。僕が君の仮面を外してあげよう。
 それまでごく普通の封建的な家庭の長男として大介が心身の中に眠らせていた素養──同性への愛を始めとした無数の影の部分を、小峰百合雄は半年ほどの調教で根こそぎ外へ引きずり出した。そうしてこれから生きるべき真の生き様を指し示してくれたと大介は思っている。二人の関係は不倫相手などという単純なものではなく、まさに師匠と弟子、教祖と信者に近い絶対的な”絆し《ほだし》”を持っていた。
 二人の関係は大介が高校三年のときに終わる。互いにとって引力の強すぎるこの関係は大介が望むほど長くは続かなかった。大介は一方的に捨てられる形で百合雄に別れを告げられ、以後は彼の顔を見ずに自らの道を歩むこととなる。


「Credo」


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