小峰百合雄に関する大介への取調べは終わった。
由加里が応接用ソファの上で静かに姿勢を正して待っていると、大介はつっけんどんな刑事に叩き出されて彼女の前に戻ってきた。由加里が見上げた先の彼の顔は勝ち誇ったように微笑んでいる。
「俺の件は時効だそうだ。もう別れてから七年以上経ってる」
今回の刑事事件の場合、時効が成立する最長期間は恐喝の七年までと決まっている。大介はその間小峰百合雄と一切関わりを持っていなかった。
「お父さんのことは、十分に弁護しておいたよ」
由加里は予想された答えに怒りを押し殺した顔つきをすると、ため息をつきながらその場で眼鏡を一度外して目頭を押さえる仕草をとった。
「あなたもなの。父を思ってくれているのなら、馬鹿なことしないで」
「これが俺と百合雄さんの納得いく答えだった」
「そういう思いは胸の中に秘めておいてほしかったのよ。私は、これ以上父を増長させないでって頼んでるの」
大介を含めた多くの被害者にとって、小峰百合雄は神にも等しい存在になりえていた。全体数に対して告訴に踏み切った人間の少なさが彼の祭事者としての目の確かさ、優秀さを示している──大介はそう思う。
二人で連れ添って警察署を出ると、雨があがって雲間からは清らかな陽の光がのぞいていた。露に冷やされた風がゆるく吹きつけるのから逃げるようにして、二人は車に乗り込み、そのまま近所のレストラン・モールへ乗りつけた。
昼下がりの会社員たちや種々の客層にまぎれながら高層ビル沿いに屋外を歩く。由加里は露をはじいた道端の街路樹に目をとめ、そのまま大介の横でしばらく遠くを見つめていた。
「由加里ちゃん」
のんびりと日本料理屋を探しながら大介がいった。
「どうしてお父さんが逮捕されたとき、アメリカにいた俺を捜してくれたんだい」
「……時期的に一致していたわ。高校生のあなたが大学にいたのも、今考えるとおかしかったし。あなたが何か知っている可能性に賭けたの」
「お父さんの刑期が延びるかもしれないとわかっていて、どうして俺を呼んだ? 家族には辛いことだろう」
吹きさらしの風のなかで、目を細める彼女の髪がはためいていた。
「私は父を超えなければならないからよ」
──確固とした物言いに、束の間言葉を失っていた。大介を見つめ返してくる由加里の瞳は昔よりも厳しく、だが輝きを失わずにいる。
「何が起きていたのか。父がどうしてあんなことを考えたのか。その背景に何があったのか。被害者は何を考えていたのか。被害者にとって何が起こったのか。……私は全てを知りたいの。全てを理解したいのよ。
そして最後には父を超越する。憎しみや哀しみに捕らわれないで、本当の自由を手に入れる」
自分の足で歩いてゆく。もうどんな暗い過去にも、この身を冒させはしない。
宣言したあとに、彼女は大介を見つめて苦笑に顔を崩した。硬い顔の下は今でも眩しく、生成りの生地のように柔らかい。大介にはそれが侵すべからざるもののように見えて、だが愛おしくてならない。
「百合雄さんは君を一番に愛していたよ」
「もういいのよ。そんなこと」
「いや、本当だ。誓ってもいい。君には大切な人の加護があったことを、忘れてほしくない」
日本の街中であるにもかかわらず大介は由加里をハグし、彼女の体を腕の中に押しとどめた。愛おしむように耳元で告げる。
「俺が最後に百合雄さんと別れたとき、百合雄さんは俺の頭を花瓶で割って俺の首を絞めた。
君を守るためだ。俺は百合雄さんを脅したんだ。よりを戻さないと君を俺と同じ目に遭わせるって。実際、そんなことできるはずもなかったのにな」
由加里を抱きしめる体の中に過去が溶けこんでくる。
若い日の大介と由加里は同じように孤独だった。精神的にぼろぼろになった大介の手を引きながら、由加里は自分の家の中が荒れているという話をした。両親の不和。夫の浮気を疑いながら精神を病んでいく母の姿。あっさりとした口調で。
──ねえ。こうして手をつないで歩くでしょう。そしたら嫉妬しないかな。大介さんの好きな人も、私の好きな人も。みんな心配して大声で喚くのよ。そうなったら、いいのにね。
振り向いた由加里の儚い微笑みを前にして、魂の似姿を見た思いがした。今すぐ彼女を路地裏に引きずりこんでずたずたにしたいという欲望に駆られ、自己嫌悪で自らを責めさいなむ。あの男にやられたことの反復になるだろう。初めて抱き潰す彼女の体と心はどれだけ柔らかいだろう。あの男はどれだけ娘の悲劇を悲しむだろう。自分はどれだけ気持ちいいだろう。どうせこの肉体は世界の裏側にとらわれ、もう二度と戻れないのだから。
──由加里ちゃん。もう俺たち、二人きりで合うのはやめような。俺たち別に付き合ってるわけでもないんだから。
邪な考えを知られる前に繋いだ手を離した。
散文的な時間の流れ。たくさんの事柄が保留されたまま、一秒ごとに新たな現実を上へ積み重ねて変質していった。大介は数日後に小峰百合雄から別れを切り出され、別れたくない一心でジョーカーを切った。「別れたら由加里を強姦するぞ」と。一瞬小峰百合雄の顔が無感情な気味の悪い顔になった。彼は部屋を出るのをやめて大介のところへ身を翻すと、安堵して背中を見せた大介に後ろから花瓶を叩きつけた。
あの日、頭から血を流して朦朧となりながら初めて見た百合雄の顔を大介は覚えている。逆鱗に醜く血走ったまなざし。自分の上に乗りかかってきた体の重さ。あの時は彼が自分の首を絞めたという事実が全てを物語っていた。鮮やかな苦しみと共に青年の中で信仰が潰えてゆく。いや、もともと彼の信じていたものは完全な神などではなかったと、思い知らされただけだったのかもしれない。
百合雄は自分を殺さなかった。ぎりぎりのところで自分を見捨て、殺す価値もないと言わんばかりにして去っていった。殺されかけながら大介は、ただ、「生かされた」という感想しか持たなかった。
胸の空洞の中に過去を思い出しながら、大介は敬虔な気持ちで暖かく由加里の体を抱き続けている。
「別にいいわよ。今ならあなたと寝ても」
穏やかな声が官能の琴線ぎりぎりを通る。互いの体の引力に逆らい、大介は首を横に振る。由加里の声が震えて体が強張るのが全身に感じられた。
「何で父もあなたも、そういう回りくどい愛し方しかできないわけ。左手で傷つけて右手で庇うみたいな……強くなろうとしてたって、今はまだこれでいっぱいいっぱいなのよ」
「わかっている」
愛しながら、喜びよりもはるかに多くの痛みや苦しみを与えてゆく。大介はあの時も今も由加里を抱けなかった。欲しいという気持ちより、彼女にこちら側の歪んだ地平へ来てほしくないという願いがいつも彼の中で絶対的な勝利を収めていた。
「向こうで娘が生まれたとき、君の名前をつけた。ゆかりって名前は俺にとって冒すべからざるものの代名詞なんだ。
俺は間違っていなかった」
由加里の呼吸が哀しみを溜めこんで止まる。
「何よそれ。どうして、そんな風にずれるの。そんなことされて私の立場はどうなるの」
「由加里ちゃんはまともなところで生きる。俺はこの捩じれた場所で生きていく。それでいいんだ」
「一人よがりで勝手なことしないでよ! どうして一人でそこまで取り返しのつかないことができるの!? あなたそれで、本当にいいことをしたとでも思ってるの?」
腕の中で熱が揺れる。殉教者としての己を目指しながら大介は近すぎる由加里の感情の波に押され、戸惑いながら揺れている。
眼鏡の向こうで美しい目の縁が訴えるように滲んでいた。
「わたしは──」
目が合って、由加里がふと黙る。そのまま時間の流れが二人を囲い、ゆっくり独立した磁場を作ってゆく。
ぎこちなく閉じた歯の微かな震えを感じながら、大介と由加里は目を閉じて唇を重ね合わせた。唇が柔らかい。終わって目を開ける前から彼女を泣かせたのではないかと大介は思った。キスを味わい終えて顔を離すと、由加里は泣きこそしなかったがびっくりした顔をして、相変わらず両目の縁を滲ませながら熱い吐息を漏らした。
「どうしてくれるの。ここ、街中よ。アメリカじゃなくて日本なんだから……ちょっと歳をわきまえて」
大介は別に頓着しない。周囲からどれだけ多くの一般人の視線を集めていようと、降り注ぐ自然光や雨と大して変わりはない。それよりもキスが終わってから彼の中では一つの価値観ががらがらと崩れている。目の前の柔らかい身体が自分を吸い寄せているのに、この女性の身体の中にはまだ聖性が消えないで、血になって流れている。
「とても悪いことをした」
つぶやいてから、頭に上ってきた血が充満して顔の表面にまで回るのを感じた。この女性を相手に回すと自分はいつも本気でどうしたらいいのかわからなくなる。もう一度信仰を確かめるべく彼女の身体を抱き寄せて視線を外すと、自分の頭のすぐ隣にある彼女の頭や、表面を流れる髪や、スーツを着こなした彼女の身体のぬくもりがくすぐったかった。
この後どうやって上手く説明をつけるか、大介にはいい考えが浮かびそうもない。
【完】
「Credo」