Credo その3

 気をとりなおして車を進めながら、大介と由加里は警察に着くまで互いに口をきかなかった。雨に囲まれながら互いのしっとりした肌に性が匂い立つようで、そのくせいつまで経っても歳をとらないむずかゆいような恥ずかしさが胸をいっぱいに満たしていて、どうしたらいいのかわからないまま目的地に車を停める。照れ隠しのために男と女はプレイボーイや娼婦になることもある、のに、この二人の場合相手に対してそれは許されないのだった。
「降りて。刑事さんに紹介するわ」
「ああ」
 やはり声がまだ少しうわずっている。大介が目を泳がせながら中学生並みのぎこちなさで先に車を降りた。由加里も運転席でキーを抜きながら目を合わせられない自分が無様だと思ったらしい。なんだこれは。いい歳をして。
 傘を差すと警察署の重苦しい雰囲気がのしかかる。何度か意識して深呼吸をすると車内での甘酸っぱい感覚は薄れていった。大介は思うところがあって建物を見つめたままじっと黙っている。由加里が案内するように先へ歩きだし、彼は後ろに並びながらようやく口を開いた。
「お父さんは元気なのかい?」
 大介にとって、今も小峰百合雄という男は絶大な存在だった。娘と同じで代わるもののない崇拝対象。わかっていながら由加里はおもしろくない。極力父親に関しては感情をコントロールすることに努め、自然と表情も乾いた厳しいものになった。
「元気よ。毎日取調べを受けて、通らない理屈を吐いてる」
「面会できるか」
「あなたは無理ね。刑事さんにお願いすれば、マジックミラー越しに見せてはくれるかもしれないけど」
 直接会話を交わすことはできない。覚悟はしていたことだった。由加里が窓口で係の者に自分の身元を告げると、数分後にロビーの階段から年配の刑事が降りてきた。刑事にお辞儀をする由加里の目はなおも事務的に伏せられていた。
 築二十年は過ぎているであろう建物の内部は、何度もペンキを塗り替えたとおぼしき鉄板の肌が目立つ。「こう長雨だと湿気て困りますね」と刑事が漏らした。湿気に覆われた床を滑らないように踏みしめながら、大介と由加里は奥の刑事課へと通された。
「捜査にご協力してくださってありがとうございます。お嬢さんの協力にはいつも本当に助かっています」
「いいえ」
 休憩兼接客用の応接セットはやはり使い込まれて古めかしかった。アンティークの価値もなさそうな年代モノの合皮のソファに由加里が腰掛けると、刑事たちは由加里にだけ茶を出しながら大介を取調室に案内する。二人は特に喋るでもなく視線を交わしただけで別れた。最後にソファからこちらを見上げた由加里の視線は、哀しみを帯びながら思いのほか強く、父を裁いてくれとはっきり言っているように見えた。

 感じるべき場所で十分に真実を噛み締める間もなく、罪はどんどん散文的な時間の上を流れて人間の背に層を成してゆく。
 由加里が本当は何を求めていたか知りながら、大介は現在進行形で彼女の思いを、踏みにじるために、帰ってきたのかもしれなかった。ただただ目の前の現実を精一杯こなしているだけなのに取り返しのつかないことになってゆく。無数の人間が同じ地平の上でこなしていく日常の間には、なんと救いがたい罪が構築され横たわっていることか。
 殺風景な取調室で刑事と向かい合って座ると、デスクライトの強烈な光が大介を照らした。大介は刑事の手続きに応じて自らの素性を端的に延べ、光に目が慣れるまで目を細める。
「今日はあなたと小峰百合雄の関係についてお聞かせ願えますか。まず最初に写真で確認してください」
 目の前に押し出された写真の中に、霜を髪に半分以上いだいた肉付きのやわらかい中年男性を見出す。しばらく声が詰まって食い入るように見つめていた。かけている眼鏡も変わっていない。菩薩を思わせる優しいその目は、間違いなく数年前に別れた男のものだった。
「間違いありません」
「小峰百合雄ですね?」
「そうです」
 髪の霜が随分増えた。歳をとったなあと感慨深く呼びかけてやりたくなって、大介は閉じた口の裏に含み笑いを浮かべた。
「小峰は現在未成年者への暴行、恐喝、それと強制わいせつの容疑で取調べを受けています」
「そうでしょうね」
 写真を見つめて深くうつむいた大介の顔を、デスクライトの暖色の光が暴き続けている。刑事は大介の受け答えに目の色を変えると、そのまま机に腕を置いて彼の言葉を待った。
「いつか捕まるだろうなとは思っていました。この人は、やり方がドラスティック(徹底的)だから。そうしないと変われない人間には迷わず暴行、恐喝も辞さないでしょう。肌に合わなかった人間もいると思いますよ」
「……あなたは肌に合うとでも?」
「あなたがたには説明してもわからないことかもしれない。だが、私は、この人を弁護するためにここへ来た。
 たとえこの人が何人もの若者を強姦し、恐喝し、関係を持ち続けたのだとしても。そこに愛が生まれていることもある。まさしくそのことによって彼と関係を重ね、真の自己を見出されて救われた人間もいるのです。
 あなたがたが容疑をかけているこれらの行為は、彼にとって完全な愛の手段であり結果なのだ。彼には相手への害意は全くなかったはずだ」
 この世の悪魔を見るような、刑事の拒絶の表情を大介は予想できていた。刑事はやがて険悪な声色で彼に押し迫った。
「大学の彼のデスクから暴行に使われた筋弛緩剤も押収されている。最初に大学教授という身分を利用して相手に接触し、薬物で体の自由を奪って暴行する! 何人もの人間が同じ手口で暴行を受けたという供述がとれているんです!」
「だから言ったはずだ。彼のやり方はドラスティックだと」
「何か身に覚えでもあるんですか。あんたは小峰が薬物を使っていることを知っていたのか」
 大介はひずんだ目で刑事を見つめたまま微笑し、押し黙った。
「小峰と肉体関係を持ちましたか」
「持った」
「最初に薬物を使われた?」
「使われたよ」
 ライトの光が目の裏に届かないように、きつく目を閉じる。
 噛んで含むように言い聞かせた。
「それは大きな、大いなる愛のために、俺が壁を越えるために仕方のなかったことだ。儀式として必要だった。
 彼は俺に本当の自分として生きる道を教えてくれた。今でも彼を愛している」
 瞼の裏に透明な潮が満ちる。大介は息を止めると、潮が引いてゆくまで意識を滑り落ちる光を数えていた。肉体によって完全に閉ざされた闇の中を、夕日を受けた潮騒の如く無数の光が振り落ちる。
 これでいい。この道以外に自分が息をして進んでゆける道は存在しない。


 青年時代。永遠のように思われていた小峰百合雄との関係に影がさし、「距離を置こう」と言い渡されたとき、大介は寄る辺を失った子羊さながらにうろたえて彼にとりすがった。
 ──どうしてだ? 俺あんたの教えてくれることは何でも覚えた。何でもできるようになったよ。俺以上にあんたを満足させられる奴なんかいない。そうだろう。あんたこそ俺無しじゃ一ヶ月と我慢できないはずだ。……そうだろ?
 最後にはよわよわしく消えた大介の問いかけに、百合雄はワイシャツを羽織りながら冷酷な視線で青年を見下ろしただけだった。青い果実は相手に気に入られようとするあまり誰よりも短期間で熟れてしまった。青い果実を好む男にとって、それはもはやべたべたと甘く疎ましい感想しか生まない。
 ──学ばない果実に用はないがね。君と会うたびに、僕にとって君の存在価値がどんどん薄れていっているんだ。君は有能すぎる。すぐに僕の手のつけられないところまで成長していってしまうだろう。
 始めから搾取され、捨てられるために愛されていたのだとそのときにはまだ受け容れられなかった。思春期も只中の青年にとって、この中年男だけが自分の愛を受け容れてくれる絶対無二の存在だった。この男がいなければ同性への愛など一体誰がわかってくれるというのか。
 ──恨むなら僕の嗜好と運命を恨みたまえ。
 無感情に閉まるドアの音。しばらくして、世界が崩れ落ちる予感に体が震えだした。

 極度のうつ状態になり、自室の隅に引きこもる日々が何日も続いた。
 閉ざされた空間の中で何度も思い浮かべるのはあの父娘のことばかりだった。百合雄の菩薩のような愛情と、冷酷さと、由加里のきらりと光る笑顔。それまで凡庸な人間として抑圧されていた大介の魂が解き放たれてからというもの、大介はあの二人にずっと惹かれ導かれ続けてきた。
 ──俺を独りにしないでくれ。
 大介はある日ついに禁を破って百合雄に会うため大学の研究室へ向かった。
 そしてあっけなく見た。他の若者に言い寄り行為に及ぶ中年男の姿を。
 自分一人ではなかった。あの男が洗礼を施さなければならない子羊は、仮面が取れる日を待ちわびる子羊は、自分の他にもまだたくさんいる。自分は十分にあの男の施しを受け、満たされたものとして見做されたということだろうか。
 時々、あの男は青天の霹靂のように救われぬ自分を抱きしめてくれた。
 大介は虚脱状態で街中を彷徨い歩き、その日のうちにゆきずりの男と行為に及んだ。激しく盛るばかりで何の思考も要らない性欲処理。全身運動が終わって服を着ると、またぶらぶらと夜の街を右へ左へ歩く。
 途切れ途切れになる記憶のどこかで由加里に会った。いつもと変わらぬ聡明さを示す由加里の前で、大介は唐突に泥を投げつけるような言葉を口にした。
 ──由加里ちゃん。自分が二番目以下の存在だってわかっても、どうにもならない関係ってあるよな。
 抜け落ちた”好きで”という言葉を由加里は察してくれた。夜の街で静かに微笑みながら彼女は返してくれた。
 ──つらい恋ね。


「Credo」


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